煌びやかに決まってんだろ その2
「助六由縁江戸桜」(すけろくゆえんのえどざくら)にしても、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのよいざめ)にしても、吉原が舞台で、そりゃぁもう煌びやかな舞台が展開していく。あーた、吉原三浦屋の前で助六をかばって見栄を切る傾城揚巻の煌びやかなことといったらありゃしませんぜ。
これも人権吉街に言わせれば、「吉原の売春宿の前で、女を買いに吉原に来たスケベー男をかばう親に売られて泣きながら体を売っている売春婦」ということになるのでゲス。
いいか!人権ゲスども、元禄の遊郭は少なくとも元禄時代には煌びやかなところだったんだ。「煌びやか」という言葉で現せるところなのである。
「遊郭を肯定的に紹介することに疑問を感じます」って、勝手に感じてろ。歌舞伎にしろ、落語にしろ、当時の美術にしろ、遊郭というのは今で言う「芸能界」のような面も併せ持つところだった。それが文化だったことは否定できない。そしてそれを現在の人権感覚で否定してしまったら、元禄文化を歴史から消去しろと言っているのに等しいのだ。
「享楽する側の視点で描かれていることにも言及すべきではないでしょうか」
馬鹿じゃねえの。「助六」や「籠釣瓶」で花魁が出てくる度に「この歌舞伎は享楽する男の視点で描かれた狂言です。ですから揚巻も本心で助六をかばってはいません」って、説明を入れろってか?
ホント、人権原理主義勢力の言うことを聞いていると、歌舞伎も落語もみんなできなくなってしまって、日本文化の崩壊になってしまう・・・。
あ!そうか、こいつら、それを端から狙っていやあがったんだな。おっと、賢明な日本人は、こいつらのいかがわしい言説にはくれぐれも乗せられませんように。