司馬遼太郎と昭和

 4月3日の朝刊に『司馬遼太郎と昭和』(週刊朝日MOOK)の広告が載っていた。もちろん速攻で本屋に行って買い求めた。

 このシリーズはずっと集めていて、ワシャの手元には既刊が14冊並んでいる。さすがに朝日新聞である。司馬さんの写真も多いし、関係者の裏情報なども詳しい。司馬遼太郎の側面史という色合いが強く、出るたびに入手して楽しく読んでいる。

 今回の誌は、司馬さんの過ごした昭和というテーマで貫かれている。第1部の5章が「京都時代の遺産」と題され、司馬さんの昭和21年から33年年ごろまでを扱っている。司馬ファンにとっては、京都で「新日本新聞社」に入社し、その後「産経新聞」に移って、大学と宗教を担当したことは有名な話ですな。

 この章の冒頭で、司馬さんが昭和35年に書いた「本山を恋う」というエッセイを引いていた。もちろんワシャの家には「本山を恋う」もある。『司馬遼太郎が考えたこと1』(新潮文庫)に載っているんですね。ただし、『司馬遼太郎が考えたこと1』の単行本にはこのエッセイは欠落している。なぜだろう・・・と考えるとまた脇道に逸れてしまうので止めておこう。

 その「本山を恋う」で司馬さんはこう言っている。

《この時期を私の経歴のなかから削りとるとしたら、こんにちの私の精神像はおろか、作家としてさえ存在していなかったかもしれない。それほど、私はこの時期に、仏教ことに西本願寺の知己友人の誘掖(ゆうえき)によって知ることのできた真宗思想に多くの恩恵をうけ、今後もなお受けつづけるであろうと思っている。》

 若き日に、人生の指針となるべく重要な知識と出会った司馬さんはさすがである。もちろんそれ以前に、それを「重要である」と見極めるだけのリテラシーを築いていいたことと、やはり大陸で死と向き合って送った軍隊生活の体験が分厚いベースとしてあってのことであろう。

 どちらにしても、ワシャなんかとは桁外れにモノが違う大人物なので、とにかく司馬さんの知識から滴り落ちてくるものを受け止めて糧としている。

 だいたい「誘掖」なんて言葉は普通知りませんぞ(泣)。「誘」は、前にあって導くこと、「掖」は、傍から助けることで、「みちびき助ける、補佐する」ことを言うのだそうな。まさに、ワシャは司馬遼太郎に「誘掖」していただいているのですよ。

 話がまた脇に行こうとしている。

 第5章「京都時代の遺産」のことに戻る。読み進めていくと、昭和23年の福井地震の取材の話が出てきた。同僚の記者とともの取材に走る司馬さんのことが書いてある。その同僚の記者というのが、のちに「夕刊フジ」の社長になった永田照海氏で、彼の手記が『司馬遼太郎の世界』(文藝春秋)にあることが書いてあった。

 もちろん、その本もワシャの棚にはあるんですね(笑)。そこにこんなエピソードが披歴されていた。

《取材で福井市に駆けつけると、社の腕章をつけた青年が近づいてきた。「本社の方ですか。ボク、京都市局の福田といいます」》

 司馬さん、本名を福田定一という。

《瓦礫の山と化した現場で、人なつっこい笑顔を浮かべていた青年記者が、司馬さんだった。司馬さんは、取材の分担をテキパキと決め、主に町ダネを担当。私は、県庁など役所を割り振られ、全体の被害状況を取材した。》

 うふふふふ、司馬さんらしいなぁ。司馬さんは、絶対に役所などお仕着せの情報しか出さないところは嫌なのである。町ダネは、市井の人々を相手にするわけで、司馬さんの興味の赴くままに取材ができ、深めることも可能だからね。永田さんを定型的な取材に回し、自分は本当の現場で地震災害の取材をしたのであろう。

 さらに「京都時代の遺産」を読み進める。後半は、司馬さんが文化部のデスクになった頃の話になる。

《文化部デスクになって始めた連載企画「美の脇役」は、昭和33年から週1ペースで、足かけ4年続いた。》

 ここを読んで、ワシャは「えええ!」と驚いたのでした。本を読んでいて、笑ったり驚愕したりと、図書館でも周囲の人に不審がられるワルシャワなのでした。

 産経新聞社編『美の脇役』(光文社)は、ワシャの本棚に挿さっている。ちょうど、司馬さんの棚が2本あって、その横が美術系の棚になっている。そこに『美の脇役』がある。美の対象である本体から、少し視線をずらして見るという手法。主役の持国天ではなく、その仏に踏んづけられて顔を歪めている邪鬼にスポットを当てるなんぞ、いいセンスをしているではないか。そういった観点がけっこう気に入って、何度も手にとっていた。印象に残っるいい本である。

 それが、司馬遼太郎さん、当時は福田定一さんの編集によるものかいな!大声を上げてしまうのも仕方がないでしょ。

 あらためて本を棚から抜いてみれば、おいおい、帯に「司馬遼太郎が新聞支社時代に企画した好評連載」と書いてあるじゃないか。ちゃんと読めよ(泣)。本の中に「二条陣屋の防音障子」はまさに司馬遼太郎の文章だった。

 こんな大切なことに本を購入してから15年も気づかなかった。そして『司馬遼太郎と昭和』を読んで、あらためて『美の脇役』を美術の棚から、司馬遼太郎の棚に移動したのだった。本と本がつながる。めでたしめでたし。