知人から言われた。
「司馬遼太郎は歴史家ではない。歴史小説家だから、彼の言説をご神託のように崇めるのはいかがなものか」
それがどうしたという話である。小説家だから言うことが稚拙だとか、狭隘であるということではなかろう。没後20年経過しているので、時代が変化し、司馬スケール自体が合わなくなってきたということも、違うと考える。
ワシャは、司馬遼太郎を思想家だと断言できる。知人の言うとおり、司馬遼太郎は小説という形式で思想を説いてきた。要はワシャのようなバカにもわかる方法で、思想を説いただけで、思想家としての位置づけは、西田幾太郎や福田恒存となんら変わるものではない。
小説家だから、死んで20年も経てば旬を過ぎてしまう、そういったことではないのだ。
司馬遼太郎が没する直前に「ウインドウズ95」が世に出た。そのあたりが潮目になって、「大衆が世界的な情報を得ることが可能になり、一人の作家の意見を求める風潮がなくなった。司馬遼太郎の知識が追いつかない時代が到来した」と知人は言う。
そうだろうか、人々の情報量は確かに多くなった。が、それで利口になったとはとても思えない。むしろ情報の海で溺れているのが、一般的な現代人と言っていいのではないか。だからこそ、時代を見るひとつのスケールとして司馬遼太郎は20年が過ぎても、古びてはいないと感じるのである。
司馬遼太郎は小説家だと言った。確かにそうだろう。しかし、小説だけでは語れない司馬遼太郎がある。例えば『人間の集団について』という評論。これは昭和48年に書かれた優れた「ベトナム論」だ。この評論の他にも、「ロシア論」「台湾論」「モンゴル論」などがあるが、これらは二昔前のものとは思えないほど色あせない。
日本の伝統を含めた歴史を、合理主義的な視座から愛し続けた司馬遼太郎を、ワシャは好きである。司馬遼太郎が描いた「竜馬」や「土方」にも好感を持っている。しかし、それは司馬竜馬を100%鵜呑みにしているということではない。多方向から光を照射してみて、「なるほどこういう形なのか」とは思う。おそらく多くの司馬ファンはそういった読み方をしているのである。
一部の経団連の偉いさんとか、横柄な経営者が、愛読作家として「司馬遼太郎」を挙げたからといって、十把一絡げにして「くそくらえ!」では不味かろう。
ワシャは大人なので、そこまでは言わないが、対象の司馬ファンがどういう観点で司馬遼太郎に向き合っているか、それを確認してから、全面否定しても遅くはないと思いませんか。
基本的にワシャは司馬遼太郎を崇めていない。ただ、同時代に生きたものとして、その残した文章の中に味わい深いものがたくさん含まれていることを知っている。そういったものをこれからも楽しんでいきたい。賞味期限が切れたなどということはないし、これから日本人がどんどんと矮小化していく中、その重要性は増すばかりだと確信している。