菜の花忌

 司馬遼太郎さんが逝って27年かぁ・・・。もうそんな歳月が過ぎているんだね。

 ワシャは司馬ファンとしてのスタートは遅い。司馬さんの小説執筆が集中するのが昭和33年から昭和46年。しかし昭和47年には『翔ぶが如く』の1本のみとなり、ピーク時の昭和41年に11本の長編連載をしていたことを思うと、司馬さんの中で小説はひと段落した観がある。

 その時期にワシャはまだ「バブバブ」と言っていた。せいぜい読めても絵本くらいのことで、大人の歴史小説など読む知的レベルではなかった。

 司馬作品を始めて認識したのは、小学校5年の頃だったか。E・R・バローズやE・E・スミスなどの宇宙活劇物に興味を引かれていた時期で、だから、駅前の本屋には毎日通ってで文庫の棚をあさっていた。その時に、司馬遼太郎の『尻啖え孫市』(角川文庫)を手に取ったのが初めてだった。文庫の初版が昭和44年なので、おそらく出たばっかりのところを少年は発見したに違いない。しかし、表紙が挿絵画家の風間完さんで、騎馬武者が右肩に、その横に八咫烏の旗印を足軽が掲げている。その前に鉄砲を構えた雑兵が立っている。もちろん長じてから拝見すれば、いい絵ですよ。その時だって気になったから手に取ったのでしょう。しかしスペースオペラ好きの小学生のボンボンには武部本一郎さんの鮮やかな色彩の表紙

http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488601393

に引かれてしまいました(笑)。

 ですから実際に司馬作品にふれたのはさらに後年のことで、この間もラジオに出演した時に、「司馬作品は全て読んでいます」と司馬ファンを強くアピールしていたんですよ(笑)。でもね、読み始めたのは、第一世代の司馬ファンに比べるとかなり遅いのかもしれない。

 今朝の朝日新聞「声」欄に《生誕100年 司馬作品に囲まれて・・・》と題された73歳男性の投稿があった。

 この世代の人が司馬遼太郎の小説のピークに青春時代がドンピシャで、タイムリーに司馬思想に感化されていたのかもしれない。

 この投稿者、『竜馬がゆく』を19歳で手にしている。この作品は産経新聞の夕刊に4年間にわたって連載されたもので、おそらくその後単行本化された直後に手に取っているのだと思う。そこで司馬ファンになって「読書好きの人生を歩むきっかけとなった」と言われている。

 この人もワシャも、そして多くの人が司馬作品によって読書の楽しみを知り、晴耕雨読の生活に入り込んでいったのだろう。

 菜の花忌にあたって、識者の意見を列記しておく。

 まずは司馬さんをもっとも理解し、もっとも理解された谷沢永一さん(書誌学者)は『司馬遼太郎エッセンス』(文春文庫)の「文庫のためのあとがき」でこう言っている。

《昭和三十年代の後半から今日まで、ほぼ三十五年間、日本国民の気持ちの拠りどころだったと見てよろしいでしょう。》

 この意見に反対する日本人はいないでしょう。いればそれは本質的に日本人ではないと言っておきましょう。平成8年に書かれたこの「あとがき」は司馬さんを見事に評している。ぜひ、興味のある方は文庫を取ってみてくださいね。

 哲学者の鷲田小彌太さんは『昭和の思想家67人』(PHP新書)の中で司馬さんをこう評している。

《司馬も、民族主義者ではないのか。そんなことはない。国家主義者ではないが、十分にナショナリストなのだ。国益(ナショナル・インタレスト)を第一の中心価値におくことを肯定はしないが、日本の伝統をも含めた歴史に固有な連続性に、きわめて冷静なしたがって持続可能な愛をそそぐのである。》

 作家の阿川弘之さんが、随筆集の『故園黄葉』(講談社)の中に「司馬遼太郎追想」という文章を載せている。その中で司馬さんをこう論じていた。

《司馬さんは、短い淡いつき合ひしか無かつた相手に、あたかも親交を結んでいたかのような錯覚を抱かせてしまふ、不思議な才能の持ち主だつたと思ふ。(中略)敢て評するなら非常な褒め上手であった。》

 司馬さんは人に対して優しかったことは有名で、面と向かった人で司馬さんに悪印象をもった人物はおそらくいなかっただろう。どんなに傲慢で我儘な相手でも、優しい物腰は変わらずに話をしていた。しかし、噛み合わないなと思えば、次はなかった。司馬さんの根底には「バカと話していても時間の無駄だ」という気持ちがあったのではないか。絶対におくびに出さないけれど。

 最後に、歴史学者磯田道史さんの『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)から。

《その国の人々が持っている「くせ」「たたずまい」、簡単に言えば「国民性」といったものは、100年や200年単位でそう簡単に変わるものではありません。であるならば、二〇世紀までの歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんを、二一世紀を生きる私たちが見つめて、自分の鏡として未来に備えていくことはとても大切ですし、司馬さんもそれを願って作品を書いていったはずなのです。(中略)でも、いちばんの根元にあったのは、後世をよくしたい、それにスコスでも力を添えたい――という、戦争にも行った世代ならではの使命感と志だったのではないでしょうか。》

 ワルシャワは軽輩ながら、司馬さんのご意志を嗣いでいきたいと思っています。

 菜の花忌に。