池坊保子

 相撲協会の今回のやり方にはずっと不信感を持っている。千代の富士が生きていればなぁ……。
 それにしても日本相撲協会評議員会議長の池坊保子氏のことである。「池坊」というだけでワシャら庶民とは別格の人であることは判る。さらに本人は公家の出で、母親は香淳皇后とお従妹様。世が世ならば殿上人。ついこの間まで衆議院議員公明党〉でもあり、学校法人の理事長でもあり、そんな池坊保子様から見ればワシャはオケラと大差ない存在だろう。
 でもね、オケラの庶民から言わせてもらえば、そんな高貴な方なのだから、相撲協会評議員など受けてはいけない。頼まれてどうしても受けざるを得なかったのなら、平評議員として後ろの方にいるべきだし、それでも会長に推されて、マスコミに晒されるのなら、もう少し優しい顔で出なさいよ。そもそも顔がふんぞり返っている。その上にふんぞり返ったようなことをほざいているとオケラの庶民を敵に回すよ。
 周辺に助言をする人間はいないのか。執事や家令のような役割の人間はいないのか。名家のお嬢様なのだから、ふんだんにあるゼニを使って御殿の奥で何不自由のないお暮しをなさいませ。そんな鬼のような顔を世間に曝して、それも大相撲などという裸の男がケツを出して取っ組み合う庶民の下品な娯楽に顔を突っ込んで、悪役を演じる必要はまったくないわさ。
 先般、お亡くなりになられた野村夫人(ご冥福を祈ります)よりもさらに強面なのだから、そのあたりは自覚してマスコミに出てこなくてはいけない。

 歴史を見てみたい。第62代の村上天皇の子の具平(ともひら)親王が臣に下って久我姓を賜る。これが始まり。それは10世紀半ばの話で、それから1000年以上公家として殿上にいた。お嬢様はその一派の梅溪(うめたに)家につながる。江戸期においての収入は150石というからわずかなものである。小藩である赤穂5万石の堀部安兵衛の家でさえ300石を給されていたというから公家とはいえ質素な生活を強いられていた。
 ところが明治維新である。この革命は公家たちにとっては薔薇色革命だった。御所の周りでわいわい言っていただけの貧乏公家が、皆様、華族と相成った。この梅溪家で、維新以降、もっとも有名な人物が保子であった。なにしろ池坊家の嫁であり、かつ法華の議員、そして大相撲のことにごちゃごちゃと首を突っ込むことで強面を全国区にした。

 それにしても平安時代からの公家がいまだに社会に強い影響力を持っていることに驚いた。日本は伝統文化の国ですな(笑)。

 そうそう母親の書棚に保子氏の旦那の本が挿してあった。池坊専永『カラー独習 池坊いけばな』(主婦の友社)である。パラパラと繰ってみたけれど、いけばなって面白そうだなぁ。ちょっと読んでみようっと。