都築弥厚のつづき

 昭和30年代に、愛知県小中学校長会が『愛知に輝く人々』というシリーズを発刊している。ワシャも幼少のころに読んだ記憶がある。都築弥厚の話は2巻に収録されている。原稿用紙10枚足らずの分量しかないが、ほぼこれで弥厚の事歴は語り尽くしていると思う。
 とはいえ、平成27年に、弥厚生誕250年を迎えるので、弥厚に関する文献を漁っている。『愛知に輝く人々』もそうだ。その他にも、『安城ケ原の歴史』、『安城が原の水音』、『明治用水』、『地域をひらいて一世紀 明治用水』などを読んでいる。とくに役立ちそうなのは、昭和47年に出版された『ひとすじの流れ1評伝・都築弥厚 石川喜平』と、弥厚もののバイブルとも言える、大正8年に出た『弥厚翁』だろう。もちろんどちらも手に入れてありまっせ。
 その『ひとすじの流れ』の中におもしろい記述がある。
 江戸は文化文政のころ、三河国碧海郡は酒どころで、とくに和泉村はその名のとおりいい水が湧いたので、酒造が盛んだった。江戸は化政文化華やかで、それこそ飲めや歌えの大騒ぎだった。酒などいくらあっても足りないほどで、全国の酒どころから船積みされた酒樽が江戸を目指した。和泉の酒も大浜港や平坂港から江戸にじゃんじゃん送られていたのだそうな。
 和泉の酒は「玉泉」「和歌泉」「風流泉」「青流泉」「滝泉」という尻に泉をつけた銘柄で売っていて、よく売れたという。本文を引用する。
《とにかく技術的にも商売熱心さにおいても、群を抜いていたのが和泉の酒造家である。当時、江戸において演劇界の大立者である七世石川團十郎白猿に和泉酒の酒銘入りの緞帳を寄贈し、團十郎の口演で和泉酒を宣伝した。》
 ほう、田舎の酒蔵の当主が、大歌舞伎のそれも宗家團十郎と付き合いがあったとは、お釈迦様でも気がつくめぇ……。そんなことはないが、ひょんなところで江戸歌舞伎とこの地域の縁を見つけた。

 尾上松緑という歌舞伎俳優がいる。当代は四代目で、少し舌足らずでギョロメだが、コミカルな役をこなせる役者である。これからの大歌舞伎を背負っていく一人に間違いない。
この四代目からさかのぼること200年前、初代の松緑が襲名披露をしている。この松緑が、和泉の名酒「松緑」につながるのではないか、そんなことを考えている。この名酒「松緑」には広告票というものが残っていた。『弥厚翁』に写真入りで紹介されている。そこには「文化十二年乙亥歳三河国泉都築家製」と記載されている。文化文政期には蔵元の都築家と團十郎の交流ははじまっていて、つねに團十郎と組んで仕事をしていた尾上菊五郎松緑の師匠である。松緑自身も三河の都築家に縁があったとみてもそれほど的を外してはいまい。
 松緑、元の名を松助という。松助を俳名の松緑に改めるのが、文化6年、弥厚が45歳のころである。この後に、弥厚が自ら造った名酒に「松緑」と名付ける。はたして偶然だろうか。
 この頃の歌舞伎役者は、俳句をたしなんだ。今でも、彼らの俳名が歌舞伎役者の名前になっていることからも、そのことがうかがい知れる。田舎の資産家や大百姓にも俳句は流行しており、図らずも弥厚と松緑は、同じ蕉門であった。
 このことからワシャは、和泉の名酒「松緑」は、歌舞伎役者の初代尾上松緑から取ったものだと仮説を立てるものである。