都築弥厚

「中空や 隣となりも 月静」(ちゅうくうや となりとなりも つきしずか)

 中天に皓皓たる望が掛かっている。作者は、広い屋敷の庭に出て、空を仰いでいる。時は文政の頃(1818〜1829)であろう。吟じているのは、三河の分限者、都築弥厚(つづきやこう)である。彼は、西三河で五本指に入る資産家であり、農業、酒造業を手広く展開していた。
 愛知県外の人には「誰やねん」という話だと思う。弥厚、極めてローカルな偉人と言っていい。
 簡単に弥厚の事歴に触れる。
 明和2年(1765)に三河国碧海郡泉村に生まれる。すでに述べたように、資産家の家に生まれ、何不自由なく成長している。幼いころから、学問、絵画、俳句などを学べる環境にあり、後年、冒頭の句を詠むにいたる。
 40歳までは、特筆すべきことはなかった。
 44歳で、用水の開鑿を思い立つ。このヒラメキが、弥厚をして、ローカルヒーローたらしめることになる。
 50歳で弥厚は、この地域の代官職に就く。
 60歳になって、44歳のときに思いついた用水開鑿のための測量を始める。もちろん単なる事業家である弥厚には測量技術はないので、隣村の石川喜平という算術家に依頼をしてのことである。
 63歳のときに、幕府に対して用水開鑿の請願を出す。それが許可されないまま69歳で没する。
 要するに何をした人かというと、荒野だった西三河南部に、矢作川から用水を通して、一大穀倉地帯を造ろうという壮大な計画を立てた人、ということである。
 豪農であったり、酒造業であったり、あるいは代官であったり、そういった形で郷土に生きた人は数多存在している。弥厚の場合は、その計画が己の利を超えて、広い地域に益を与えるものだったゆえに「郷土の偉人」ということになった。
 彼が目指した用水は後に開鑿され、明治用水と名付けられる。時代の名を冠した用水は、8つの自治体にまたがる7000ヘクタールの土地を潤し、西三河南部に一大農業地を形成するにいたる。そればかりではない。戦後、その用水は工業用水となり、世界でもトップの工業集積地をここに造ったのである。このことを考えると、都築弥厚のヒラメキの恩恵は極めて大きい。
 そのローカルヒーローの生誕250年が平成27年にやってくる。

 え、またですか(笑)。