寅年に寅次郎

って、安易な発想ですね。

 昨日の朝日新聞地方版「東海エトセトラ」題して《ご存じフーテンの寅 足跡は3県12ヵ所》。記事ののっけから300字は誰でも書けるこの地域のロケ場所の紹介で、残りは映画評論家のインタビューが全てとなっている。これなら文才がなくても書けますな。インタビューに入る前の文章もおかしい。

《ちなみに、映画の中で寅さんが訪れていないのは、富山県高知県だけだ。寅さんは、なぜ、全国を旅したのか。》

 この文章ヘンでしょ。富山県高知県に行っていないので、全国は旅していないことになるよね。どうせ書くのなら「映画の中で訪れたのは富山県高知県を除く全国である。なぜ、寅さんは各地を旅したのか」のほうが分かりやすい。

 映画評論家の発言にも疑問点がある。 《寅さんの旅では地方に美人がいて人情にあつい。美女は地方の良さを象徴する存在です。》

 おいお~い、映画評論家を称するオジサンよ、美女はたくさんでてくるが、例えば代表的なマドンナのリリーは東京だし、御前様のお嬢さん、恩師坪内先生のお嬢さん、幼稚園の春子先生、豆腐屋の娘の節子さん、喫茶店のママの貴子さん、小説家の娘の歌子さん、幼馴染のお千代さん、画家のりつ子さん、看護婦の京子さん、考古学を学ぶ礼子さん、満夫の担任のお母さん、殿様の息子の嫁の鞠子さん、松竹歌劇団の奈々子さん、とらやで働く早苗さん・・・ううむ、面倒くさくなってきたが、これらの人はみんな東京都かその周辺に住んでいる。それ以外の美女も東京近郊は多い。「美女が地方の良さを象徴する存在」ではけっしてない。むしろリリー4回、歌子3回と都会の匂いをもつ女性が寅次郎との縁が深いのである。こういう嘘を紙面に出してはいけない。 あ、朝日は嘘と捏造だらけだったね(笑)。

 さらに評論家先生は言う。

《寅さんの旅は、地方への賛歌とみることもできる。都会が地方を収奪していることへの文明批判になっている。》

 そりゃ穿ち過ぎだって。寅さんは商売で全国津々浦々を旅している。郷愁を感じるけれど「賛歌」というほどの大それたものではない。あのシャイな寅次郎がそんなことを考えて旅をしているわけがないでしょう。 「無意識にやっていることが賛歌になっているかもしれないじゃないか?」と言われても、そういう大袈裟なことを寅次郎は嫌ってきたことはファンなら判っているんでしょ。だったらそっと見送ってやんなさいよ。それが本当のファンではないのかい?  結局、この記事はおのれで出した「問い」の「なぜ、全国を旅したのか」に答えずに尻つぼみに終わっている。まぁなんとも安易で中途半端なことですなぁ(笑)。

 そして今日の「天声人語」も安易というか手抜きというか、もうかつての「天声人語」の知的レベルは完全に消え失せた。書き出しはこうだ。

《新年になると、仏教に関する本を開きたくなる。年越しのテレビに寺社の映像が流れるからだろうか。中村元(はじめ)編著『仏教語源散策』は、日常の言葉のあれこれが実は仏教由来だと教えてくれる。》

 どんな本を読もうと勝手だが、その本の知識を偉そうに開陳するなって話。『仏教語源散策』(東書選書)はワシャだって持っている。目次を開けば80の仏教用語が並んでいて、さらに索引までついているから、「この中の4つの用語を使って600字の作文を書きなさい」って、そんなもの小学生でも書きまっせ。

 冒頭の部分を見るだけで結末も見えてくる。「年越しのテレビ」と布石を打ってきたところで、結論は「年始のテレビ」と読むことは安易だ。下手な碁打ちの石の行方など手に取るように判る。 ご丁寧にも「有頂天」、「無常」、「精進」を本から引っ張った知識で、上から目線で解説する。オマエは池上彰か(笑)。  コラムと称する駄文の「転」はこう始まった。 《仏教の努力主義に感心しながら》って、まずは、あんたがいい作文を書く努力しなさいよ。すいません、すぐに逸れてしまう。続ける。

《テレビを見ると、どこか求道者のようなランナーたちがいた》

 と、こうくる。 『仏教語源散策』の目次を見れば「韋駄天」という語が見つかる。「年始」「テレビ」「仏教語」の三題から「韋駄天」に思い当たるのも簡単で、実際にワシャは7行目での「起こし」の部分で「韋駄天」の語が浮かんだ。それで「転」の冒頭で確信する。「結」の一文を引くまでもないけど、

《その努力の何十分の一かでもあやかりたい「韋駄天」たちである。》

 大爆笑だった。さらに、

《これもまた足の速いインドの神に由来する仏教用語だそうだ。》

 これもまたみんな知っているって。「仏教用語だそうだ」などと新年から大見得をきって得意がっているのはお前だけだよ。

「寅年は寅次郎」って、朝日の記者たちのレベル低下がはなはだしい。先は見えたね。