酋長の娘

 朝、墓掃除に行ってきた。老母からお供え花を渡され「行ってくるように」と言われていた。素直な息子は、花と線香と蝋燭をもって日の出とともに郊外の墓地に出かけたのだった。帰宅して床屋にでも行こうかと思っていたら、身内から電話があった。なんだか犬も喰わない話なのだが、「どうしても聴いてほしい」ということで、「では夕方にでも」と応じたのだが、「今から頼む!」ということなので、しぶしぶ承諾をする。人のことにかまけている場合じゃないんだけどな(自嘲)。

 評論家の呉智英さんの連載がおもしろい。「週刊ポスト」に隔週で書かれている。最新号は「女酋長の復権」である。
 そのことに触れる前に『男はつらいよ』の話をしたい。第17作「寅次郎夕焼け小焼け」である。全作の中でもトップクラスの名作で、マドンナが個性派の太地喜和子、ゲスト俳優が宇野重吉、これだけでも一見の価値があるのだが、ここに大滝秀治岡田嘉子佐野浅夫などがからんでくる。宇野の息子の寺尾聰桜井センリなども加わって、見どころの多い作品である。
 物語は、日本画の巨匠(宇野)と寅次郎が居酒屋で出会うところから始まる。パターンの「偉い人に気に入られる寅」でドラマは進む。この巨匠が自治体に招聘され播州の龍野に出かける。そこで旅の途中の寅次郎とばったり出くわす。その夜の地元での歓迎会にもなぜか寅も巨匠と並んで顔を出す。そこでの「里芋事件」がまたおもしろい。自治体の主催の宴である。当然のことながら地元の首長の歓迎のあいさつがある。これが、まあ退屈だ。最初は上座で大人しくしていた寅次郎だが、ついついお膳の里芋に箸を出す。それがコロリと皿から飛び出し、宴席の畳の上をコロコロと転がっていく。宴席のあいさつなどというものは実は誰も聞いていない。そこに起ったハプニングのほうに意識がいくのは至極当然だ。ずらりと並んだ出席者や芸者たちは里芋のゆくえと寅次郎の対応が気になる。この時の寅次郎と芸者のぼたん(太地)の無言劇が秀逸である。宴席は翌日も続くのであるが、そこで龍野市役所の課長(桜井)がかくし芸を披露する。踊りである。浴衣の袖を胸の前でリボンに結び、手拭いを頭にかぶって襖の向こうから現われる。「私のラバさん酋長の娘〜」を歌いながら滑稽に踊る。これがために放送の際には「この作品には、今日では一部不適切と思われる表現がありますが、著作権の歴史的価値を考慮し、製作当時のまま放映しております」という但し書きが出る。「酋長」は差別用語なのだ。
 長くてごめんなさい。これを呉智英さんは一蹴する。それも朝日新聞の記事を引いて「愚劣な差別語狩りはくだらない」論を展開している。さすが呉さん!
《「酋」は、集団のおさ、かしら、傑出した者、という意味である。(中略)悪い意味など少しもない。》
「酋長」がなぜか禁圧され、そのかわり「首長」が市民権を得る。だから首長は「くびちょう」と言うことが多い。「しゅちょう」と読むと「しゅうちょう」と間違いやすいからである。そのあたりのことを考えれば龍野市の酋長でもいいわけで、その首長の主催する宴席のながれで「酋長の娘」を歌い踊るのはそれはそれで合っているのだ。