表現の自由は放任がいいのか

 表現というものは、自由放任にしておくと、とんでもない暴力性を発揮することがある。周囲に悪臭を放つゴミ屋敷だって、それが家主の表現だとしたら、どうしますか。自分の敷地内でやっていることに対して、撤去しろとか言うことは、これは「表現の自由」を侵しているよね。家主が芸術だと認めていることに、異議を唱えるのはいいのか、ということなのだ。

 でもゴミはゴミだし、臭いものはすぐに撤去させるのが、行政の役割であろう。いかに自由を確保しつつ御していくか、これが行政の腕の見せどころではないですか。

 一連のトリエンナーレの作品は臭いを出していないじゃないか。そう言われるかもしれない。臭覚には感じないかもしれないが、あの作品群は「反日」という強烈な悪臭を放っているのだ。

 

 今朝の朝日新聞に《不自由展への扉少し開いた》という見出しがある。「少し」という字だけが少し小さい。

 内容は、「不自由展」の中止に抗議する作家らの抗議のメモを、会場前に貼り出していたのだが、それが1500枚溜まって、貼りきれなくなった。仕方がないので、展示室内に貼るスペースを拡大したということ。ここでも左系の作家、市民活動家らが活躍(暗躍)しているそうな。

 その中の一人が「トリエンナーレの不交付に喝采を送る人びとは、その刃がもしかしたら自分にも向けられるかもしれないという想像力を持たないお花畑に暮しているのだろう」と言っている。

 これに対して、ジャーナリストの有本香さんがこう反論している。

《大半の日本国民は、交付金なんかあてにせず表現の自由謳歌しているから、「刃」向けられる心配などあるわけない。要件も満たさずに公金にたかろうとする発想のほうが、納税者にとっては刃だよ。》

 おっしゃるとおり。

《「我々は誇りを持って自分たちの展覧会をするのだ。我々は乞食ではない。補助金なんかいらん。」くらい言えんのか?主催者の皆さん。きみたちヘタレだね。》

 とは、高須克弥先生。

 

 しかし、ここまでくると「日本を愛する人たち」と「プロ市民」の戦いのようになってきましたね。「プロ市民」は自分たちの要求を通すためには、どんな手でも使ってくるので気を付けないといけない。ある意味で、中共と同じDNAを持っているからね。剣呑剣呑。