無心について

 昨日、読書会。課題図書は鈴木大拙の『無心ということ』(大東出版社)。これは大拙東本願寺の信徒の要請により行った講演会の記録である。テーマは「無心」、大拙も言っているが、文体に統一感がなく、散漫を極めている。このためにやや読みにくい。ただ、講が「無心とはなにか」「無心の探究」「無心の活動」「無心の完成」「無心の生活」「無心の体験」と六つに分けられ、そのそれぞれが細かく項立てされている。だから興味を引かれたタイトルのところから読んでもいい。
 ワシャは第一講15項目では「無心の意味」「無心の表現」などをまず拾い読みした。そこで「一竹葉堦を掃って塵動かず、月潭底を穿ちて水に痕なし」あたりからはいっていった。
 わりと読書の嫌いなメンバーは「読んでいたら無心になった」と言って、大爆笑をとっていた。活字を活字そのままに受け取って、そこになにが書かれているかということを考えずに模様として見ていたという。おおお、それこそ無心の境地ではないか。
 しっかり読みこんできたメンバーからは第二講「不死」が示された。先般、ご家族がお亡くなりになられたところだったので、大拙の言う「死して後も天地とともに生きる」という言葉に救われたことを感想として述べた。
 ここで「死」ということに関して議論になった。刹那でも霊魂が残るか否かで、激論が交わされた。「無心」でも心はこの天地に残る、確かに「不死」の項を読むとそう読み取れる。しかしワシャは心が残ったら「有心」であって、「無心」とはそのままの自然(じねん)を受け入れることで、死して分子の世界まで細分化されそれが永遠に天地の中に生きていくんだ〜というようなことを喚いていた。
 隣の大会議室では100人くらいの若い女性が美容の講習会を受けている。若さむんむんの美容員たちが無心にメークアップの訓練をしているのだ。その並びの小さな部屋で、オッサンたちが「むし〜んむし〜ん」と大声で怒鳴り合っているのである。その様子は外の廊下から細めのガラス窓越しに見える。通りかかった人はこのコントラストにさぞや驚くであろう。
 無心とはなにか、我執とはなにか、道とは、仏とは、即心是仏とは……なんてことが一回の読書会で結論づけられるわけがないので、そうそうに店じまいをして、駅前の居酒屋に場所をかえたのだった。
 そこで無心に飲んで食ったのだった。めでたしめでたし。