禅と俳句

「秋の航一大紺円盤の中」中村草田男の傑作である。「あきのこう いちだいこんえんばんのなか」と読む。
 船旅の途中、秋晴れの大天気、海は大きな紺青の円盤のようだ、と詠んでいる。なんとスケールの大きな句であろう。
 ただ、やはり奥行きとか広大さを「古池やかわず飛びこむ水の音」と比較すると、軍配は「古池」に上げざるをえない。「秋の」のほうは、広大といってもしょせん水平線までの限定された範囲でしかなく、禅の世界に分け入っている芭蕉のほうは、その無辺際であること、いかばかりであろうか。  

 昨日、読書会。課題図書は、このところうるさいくらいに出てくる(笑)鈴木大拙『禅と日本文化』(岩波新書)である。これはワシャばかりではなく読書会のメンバーのほとんどがそうであったらしく、話がはずむことといったらありゃしない。
「禅というものが、それ単体では説明が難しく、能、水墨画、武士道、茶道、俳句などといった日本文化とからめることで、禅という単体ではなかなか理解できないものをわかりやすく説明している」
「命と直接つながっているということから、男性よりも女性の方が禅匠に近いのでは」
一神教は神と個人で成り立っているが、禅は神も人も蛙も水音さえも同じ世界観の中で一緒に混在させてしまう、というようなことが漠然とだが見えてきた」
「現在、我々が知識としている、読んだり聞いたりすること、観察したり実験・分析したりすることは、禅から考えれば、絶対的な信頼を置くことができない、との指摘は目から鱗だった」
 とか、いろいろな話が出ましたぞ。
 なにしろ奥行きのある名著なので、再度、再三と読みなおさないと、大拙のいうところの本質は理解できないのかもしれない。ただ、日本文化を禅とからめることで、より一層の深みを感じられることがわかっただけでも収穫だった。

 大拙は、蕪村の句「釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな」を引いて、蝶と鐘の表象によって表現される無意識への直覚を説明しているが、ワシャには難し過ぎてよくわからない。でもね、この句が、やはり冒頭の草田男の句よりも奥行きや広がりで優っていることは直覚したのだった。

 読書会の後は、駅前で軽く一杯。あ〜楽しかった。でも睡眠不足(泣)。自然と渾然一体となり、あるがままに眠る……ううむ、まだまだ修業が足らぬ(喝!)。