延喜3年(903)、菅原道真が左遷先の大宰府で身罷る。その後、道真の祟りと称される天変地異が続く。もうこうなると陰陽師の世界なのだが、平安の世では、あらゆる不思議が怪異とされた。
こんな話が『大鏡』にある。
円融天皇の御代のこと、落雷などによって内裏が何度も火災にあった。その修理を請け負った大工たちが屋根の裏板を、ていねいに鉋をかけて退出し、翌日、参上してみると、昨日、鉋をかけた裏板に、なんだか黒ずんで見える所がある。「なんだろう」と思って、梯子に登って確認すると、一夜のうちに虫が板を、文字の形に喰っていたのである。
そりゃ元気な虫なら一夜で板材を食っちまうこともあるでしょう(ないか)。ここでの問題は虫が文字を喰い現したということなのである。その文字は、
「つくるともまたもやけなんすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは」
むふふふふ。
「いくど造りなおしても、また焼けてしまうだろうよ。棟の板間(胸の痛み)の隙間(傷)が合わない(癒されない)限りは」
蘆屋道満が大屋根の上で不気味に笑っているような気がしませんか。
道真を大宰府に流した藤原時平もけっして安穏としていたわけではない。もちろん祟りではないのだが、天は鳴り地は動ずる。古代、そういったものはすべて為政者のせいにされた。全部、時平のせいということになる。
延喜9年4月4日、39歳の若さで時平が逝く。その他にも時平の係累が亡くなっていくので、無責任な京雀たちは、道真の一件を絡めて面白おかしく、ときには恐ろしく噂をしたに違いない。