大事は再挙せざれ、事留むれば則ち変生ず

 題は、『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)の中にある右大将菅原朝臣の言葉である。
「大事は二度なさってはなりません。事を中止すればたちまち突発的な出来事が起こります」
 これだけでは何のことか判りませんよね。少し解説を加えます。
 寛平(かんぴょう)7年、宇多天皇は、幼少の醍醐天皇に譲位するに際し、心得とすべきことを書き送ったものが、この『寛平御遺誡』である。この中に心得とともに家臣たちの評価も書いて渡している。
 信任の厚かった菅原道真については、「立太子や譲位についても道真のみに相談したほどであるから『新君の功臣』として信任すべきである」と書く。
 宇多天皇は敦仁(あつぎみ)親王に帝位を譲るとき、一度迷っている。そのことを道真に相談すると「一度決めたことを取り止めたりすれば、必ず異変が起きます。大事は二度行ってはなりません」と進言し、宇多天皇はそれに従った。そんな話が載っている。
 菅原道真といえば、天神様、大宰府梅の花、祟り……などが思い浮かぶ。
 政争に負けて、大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷となる。無実の罪で都から九州まで飛ばされるのである。道真の憤りはいかばかりであろうか。都の梅の花を懐かしみつつ、2年後に憤死し、その霊は都に舞い戻り、政敵に祟りをなす。驚いた公卿たちは、あわてて道真を天神に祭り上げて慰霊をするのだった。このあたりはとみに有名な話である。
 そうそう、道真は政治家として大きな決断を下している。その部分を『詳説 日本史』(山川出版社)から引く。
《外交面でも、894(寛平6年)菅原道真の建議によって、律令時代に多くの犠牲をはらって派遣された遣唐使が廃止された。》
 長々と書いてきたのは、このことが言いたかったからである。
607年、聖徳太子が大陸に遣わした遣隋使以来260年にわたる大陸との付き合いを、道真が終止符を打った。朝廷が財政的に逼迫していることもある。しかし、すでに大陸から得るものがほとんどなくなっていたことも大きな要因だった。それでも道真という賢明な人物が権力を握らず、事なかれ公卿どもが牛耳っていたならば、中止の決断を下せず、その後もだらだらと貢物を携えて東支那海を右往左往していたに違いない。
 そういった意味からも、唐との国交を断絶した道真の功績は、「東天皇、敬みて西皇帝に白(もう)す」と隋に国書を送った聖徳太子と比肩するものと言っていいだろう。

「大事は再挙せざれ、事留むれば則ち変生ず」
 野田政権よ。一度決めたことを変節することなかれ。おそらく寛平の公卿どもより、決断のできない不甲斐ない書生政治家ばかりだから、大事を再挙し、事留むこと甚だしい。そりゃぁ異変も起きるわなぁ。