頭山満

西郷南洲翁遺訓』にこうある。
「国が外国に凌辱されるようなことがあれば、たとえ国全てを賭して斃れようと正道を踏み、義を尽くすのは政府の務めである」
 もちろんこれは民主党政権に言っているのではない。当時、「遣韓論」(「征韓論」じゃないよ)を唱えていた西郷隆盛が明治政府に言ったものである。確かに、明治の前期の日本と欧米との国力の差は圧倒的であり、大久保利通の現実主義も理解できる。しかし、西郷の、日本の国権と独立こそを第一義とし、外からの圧力に抵抗する決意も大切だった。
 大久保と西郷の対立についてはまたの機会に譲るが、このことにより西郷はすべての官職を捨て、下野し鹿児島に帰郷する。西郷を慕う鹿児島武士たちも高給を投げ打って鹿児島にもどり、西郷を担ぎ上げて私塾をつくって明治政府を批判した。そういうことがあって西郷のまわりには反明治政府の不平士族がぞくぞくと集結し、明治10年、西南戦争へとつながっていく。
 鹿児島から立った西郷軍に呼応して福岡でも士族が挙兵した。いわゆる「福岡の変」である。しかし突然の呼応のため準備が至らず、計画が疎漏だったために参加するはずの士族が大量に逮捕され、この変は事実上壊滅する。

 ここからが本題。
西南戦争」や「福岡の変」に先立つこと4カ月、山口県で「萩の乱」が起きた。この乱に関係していたとして頭山満という若者が投獄されていた。
 おっと頭山満って誰よという方もおみえだろう。少し説明をする。

 頭山満、明治、大正、昭和前期の国家主義者。福岡藩士。西郷隆盛の大陸政策に共鳴し、萩の乱に参加して入獄。出獄後、国会開設運動を推進。のちに玄洋社を結成し、大陸進出を主張する大アジア主義を唱える。対外強硬外交を主張し、金玉均、ビバリ・ボーズら亡命家を援助した。終生、公の職を求めず在野活動を続ける。

 頭山満というと右翼と断ずる傾向もあるが、当初は自由民権を目指していた。頭山が結成した玄洋社の三憲則は、
「皇室を敬戴すべし」
「本国を愛重すべし」
「人民の権利を固守すべし」
 である。
 そうそう、頭山の事歴の中で、「中国の革命家の孫文を支援した」というものもある。頭山の玄洋社は、長期にわたり孫文の中国革命に援助し続けた。このことを中国共産党は忘れてしまったのかな?孫文は「中国革命の父」ではなかったのか。
 まぁいいや。忘恩の体制など考えるだけでも不愉快だ。

 葦津珍彦『大アジア主義頭山満』(葦津事務所)から引く。
《東京渋谷の頭山家の門をたたく人々の政治的立場は必ずしも一本ではなく、多様多彩ではあった。だがその万客は、この老翁の精神力に期待したし、その大きな人間的統合力に望みをかけていた。》
 昭和19年、頭山の思いとは裏腹に、大東亜の戦局は悪化の一途をたどっていた。明治神宮では連日のように神前に拝跪する頭山の姿が見られたという。
 その年の秋、頭山は御殿場の別荘に赴いている。そこで霊峰と対峙し日本のあり方、アジアの未来を思索しながら、10月5日に彼岸に旅立った。享年90歳、大往生であったという。