天誅組の乱

 文久3年8月、孝明天皇による攘夷祈願のため大和行幸が決定された。これに呼応して、一部の過激派が攘夷の先駆けたらんとして大和に挙兵した。これを天誅組の乱という。
 一党はまず大和の五条代官所を襲撃し、代官や手代を血祭りにあげる。しかし、その頃、京都では政変が起き、攘夷派の公卿が失脚していた。いわゆる「七卿落ち」である。そうなると天誅組は官軍となりきれず、単なる暴徒の集団でしかなくなった。それでもリーダーの中山忠光(公家)の激情的性格に引っ張られる格好で驀進していく。
 奈良盆地の飛鳥地方、石舞台、高松塚、キトラなどの古墳群が点在しているのは有名ですよね。その南の尾根に高取城があるが、そこまで足を伸ばす観光客はまずいない。
 高取城のことを少し話す。城は典型的な山城で、大手門から二ノ門までは二十丁というから2km以上ある。本丸を中心にして、二ノ丸、三ノ丸、大手郭、吉野郭、壺坂郭などを配し、総数27の櫓を備え、城門は山麓まで12を数えた。
 威容を誇る高取城なのだが、ここを守っていたのが、譜代の植村家2万5千石である。総動員兵力150の小さな藩であった。この城を千人に膨れ上がった天誅組が襲ったのである。城攻め3倍というから7倍の兵力を持つ天誅組が俄然有利のはずだった。が、組織だった動きのとれぬ所詮は烏合の衆だった。
 その上に高取藩には、260年前に徳川家康から賜った大筒があった。大坂城攻撃の折に火を噴いた古色蒼然とした文化財だった。それでもタマは轟音を立てて飛んだ。この音に驚いた天誅組は算を見出して敗走した。総崩れである。
その後、大和のあちこちで残党狩りにあい天誅組は壊滅した。

 常識から言えば、高取藩VS天誅組、どう転んでも天誅組の勝ちだった。しかし、兵の練度――といってもこの場合は砲兵の練度ということだが――の差、組織体制の整備状況の違いが勝敗を分けた。

 なにを言いたいかというと、小なりといえども、時として毅然と大軍に向き合わなければならないということ。常日頃から、鍛えておけば、それは必ずや報われると思う。ただし、それは一戦に留めおくべきものと考える。