冷静沈着

 コラムニストの勝谷誠彦さんが昨日の有料メールで、ボクシングの試合前の心境を書いておられた。
《ゴングが鳴る。そうなるともう恐怖心などどこかへ行ってしまい、闘争心だけが突き上げてくる。戦場の兵士というのはこうなのだろう。》
 勝谷さんは、この文章に続けて、こう言っている。
《今の私のテーマはこの闘争心をコントロールすること。冷静に、冷静に、相手を見ること。》
 何事もそうなのだが、切所になればなるほど、冷静に、沈着に、対応しなければいけない。
 そうそう宮本武蔵の『五輪書』にも、戦闘時の心の持ち方が記してある。
「兵法の道において、心の持ちようは、常に心の替ることなかれ。常にも兵法の時にも、少しも替らずして、心を広く直にして、きつくひっぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬように、心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、そのゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬように、能々吟味すべし」
 ううむ、やはり心の持ちようが大切だと説いている。

 そして、勝谷さんや武蔵が言っていることを、この男はこう語った。
「才は沈才たるべし。勇は沈勇たるべし。孝は至孝たるべし。忠は至忠たるべし。何事も気を負うて憤りを発し、出たところ勝負に無念晴らしをするのは、そのことがたとい忠孝の善事であっても不善事にまさる悪結果となるものである」
 昨日の夜、たまたま手に取った本でこの言葉をひさしぶりに目にしたのだ。これがワシャの心にいたく響いた。「何事も気を負うて憤りを発し……」ですよね。そうですよね。
 この言葉を口に出したのは、頭山満である。最近では、小林よしのり『大東亜論』(小学館)などで取り上げられているので、知っている方も増えたのではないだろうか。ワシャは、葦津珍彦『大アジア主義頭山満』(葦津事務所)でこの人を、この言葉を知った。一応『大東亜論』も調べてみたら、有名な言葉なのでやっぱり載っている。どっちから引っ張ってきたのでもいいのだけれど、一応、ワルシャワは葦津さんの本が先ということで……(笑)。
 このところちょいとしたゴタゴタがあって、傍から見れば無神経で鉄の心臓を持っていそうなワルシャワでも、いろいろと人生を考えるわけですわ。そこでたまたま手に取った『大アジア主義頭山満』で、吹っ切れたというか、そんなに簡単には吹っ切れないのだけれど、まぁ諦観(たいかん)の境地に至ったというところだろうか。
 駑才に走り過ぎ、蛮勇にとらわれ、孝忠に励んでこなかった。些末なことに気負って憤慨し、どうでもいいことを口惜しがって場当たり的に無念を晴らそうとする。
「そんなことは大したことではなかろう」
 生涯無位無官の頭山翁は泰然として笑う。