各々(おのおの)互いに合詞(あいことば)、山、川

 2日前に開催された忘年会でのこと。そこで凸凹商事のライバル会社である尖がり物産の前副社長のG氏とたまたま席が隣になった。社員だった頃から交流していた人だったので旧交を温めましたぞ。

 その中で「山陰方面に旅行に行っていた」と言われた。ワシャも酔っていたので、内容をしっかりと記憶していないのだが、キーワードとして「忠臣蔵」、「津和野」、「吉良上野介」などの単語があったのは憶えている。この手のワードが出てくると、ワシャは調子に乗ってくるんですね(笑)。歌舞伎の「忠臣蔵」はそれこそ、歌舞伎座でも御園座でも何回も観ている。「吉良上野介」が関わるいわゆる「赤穂事件」についてはかなりの資料を持っているので蘊蓄はけっこう語れまっせ(笑)。てなことで大いに盛り上がった忘年会であった。

 さて、本日は12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日なんですね。今日の夜半に吉良上野介を襲撃した。

 偶然とはいえ、12月14日の直前に「赤穂事件」の話になったのも、なにかのご縁ということで、ちょいとそのあたりの話をしたいと思う。

 G氏、津和野に行ったと言っている。「津和野」って言われても、赤穂事件に「津和野」が出てきたかなぁ?「赤穂」や「京都山科」は地名として出てくるが、「津和野」がなにか関係があったかなぁ・・・と『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社)の「津和野」を引いてみた。そうするとね、「赤穂事件」のあった元禄時代の藩主が「亀井玆親(これちか)」という人物だということが分かった。彼は25歳と30歳で勅使饗応役に任ぜられ、吉良上野介から指導を受けている。G氏は言う。

「この人も吉良から厳しい指導を受けて、吉良を斬ろうと思ったらしいが、家老の諫めを受けて断念した」

 ふ~ん、このあたりは史実にはないね。これはドラマである「忠臣蔵」のほうから出ているのではないか?そう思ってワシャは『仮名手本忠臣蔵』(白水社)を確認する。

ううむ、これは「忠臣蔵」の「大序の場」(第一場、一段目)に登場する桃井若狭之助の行動に似ている。ここから同時期に饗応役にあった亀井にこの役が振り当てられたのではないだろうか。

 吉良上野介を諸々の文献、『徳川實紀』などを読むと、ワシャには実直な徳川幕閣官僚としての姿しか見えてこない。あえて言えば、殿中でのしきたりや作法に精通していた吉良が田舎者の世間知らずの小大名を鼻であしらうこともあっただろう。それは現在でも、高級官僚らの横柄さを見れば、偉い奴らの日常的な姿と言っていい。

 とすると、そういった高級官僚の見下すような視線、発言などモノともせずに饗応役を務めることこそ重要だと思う。

 その点で、何百人という家臣を支えている五万石を捨て、命をも捨てた浅野内匠頭の殿中刃傷は、ある意味で狂気の沙汰といえる。後に歌舞伎などで浅野が美化され、吉良が悪役になってしまって、現在に至っているわけだが、官僚組織などそういったパワハラは日常茶飯と言っていい。

 話がかなり逸れたが、そういったある種のファンタジーを求めてG氏は旅を楽しんだのだろう。

 今日のタイトルは、「忠臣蔵」の第十一段「義士討入りの場」の大星由良之助(大石内蔵助)のセリフでした。暗闇で相打ちをしないように「山」と発したら「川」と応じるということですね。ワシャなんかは暗闇で「山」と問われれば「川?」って言いそうですけど(笑)。

 

 今朝がた、夢を見た。40年前に亡くなった祖父が登場した。祖父が父母の家の居間の片付けをしていた。「お爺ちゃん、懐かしいなぁ」と思ったが、尿意が優先だったので「トイレを借りるね」と祖父に声をかけて直行した。それが古いタイプの便所で、それこそ祖父が健在の頃の祖父の家(父母の家だったのに、夢なのでその点は気にならなかった)の水洗化されていないもので、木の蓋のついたものだった。意識は2025年のワシャだから「ちょっと用を足しにくいなぁ」と内心に思った。そこで、古い家の便所を出て、数歩を歩くと今の父母の家のトイレ(もちろん水洗)にたどり着く。このあたりが夢の夢たる所以ですな(笑)。さあ、用を足そうと思ったら目が覚めた。

 ワシャはあわてて自宅のトイレに直行した。これは夢ではないようだ。

 でも、これも「敦盛」と一緒で、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」で、一時の夢なのかもしれません。

 蛇足でした。