怨霊の話

 古代史がおもしろい。740年というから平城京遷都から30年。高校の日本史の教科書には必ず出ている大軍(おおいくさ)が九州の北部であった。九州の隼人らをまとめた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、聖武天皇の軍兵と戦って敗北をした。壬申の乱以来の大規模な内戦だった。この内乱、じつは些細なことから始まった。
 藤原広嗣藤原不比等の孫にあたる。藤原四家のひとつである式家の跡取りであった。当時の朝廷にあって、政治を動かしていく中枢の一族ということになる。帝のブレーンだった父親が死ぬ。ちょうど藤原家の影響力を殺ごうという動きがあって次のような仕儀となる。『続日本記』を引く。
《十二月四日 従五位下の藤原朝臣広嗣を大宰少弐に任じた》
 藤原一党の追い落としであり、広嗣は平城京から大宰府に左遷された。しかし「敬して遠ざけよ」なのである。広嗣を少し昇進させて、大宰府に送ればよかった。そもそも大宰府に行くこと自体が屈辱なのである。後年、菅原道真はそこで憤死しているくらいだからね。広嗣も同じことなのである。道真より広嗣のほうが骨があったので武力蜂起をした。聖武帝のブレーン(僧侶の玄纊や恵美押勝)に少しばかりの配慮があれば北九州で乱は起きなかっただろう。
 この乱は一時的なもので終わらなかった。広嗣は捕えられ処刑されたが、その後、怨霊となって聖武帝やそのブレーンに祟った。このために聖武帝は精神不安をきたし、大宰府を廃し、都も転々と変えた。広嗣の大宰府異動を実行した玄纊は、その後、自らも九州に流され、怨霊のために害せられたと言い伝えられている。