左降

続日本紀』の天平勝宝2年の項に、吉備真備(きびのまきび)の話が出てくる。吉備真備と言えば、ワシャの好きな『吉備大臣入唐絵巻』に出てくる空飛ぶ真備ちゃんのことね。そのあたりのことはここに書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20120720/
その真備の記事である。
「左降従四位上吉備朝臣真備為筑前守」
 まず「左降」は左遷のこと、「従四位上」は位階、「吉備朝臣真備」は真備の名、「為」は「〜のため」、「筑前守」は国名である。
従四位上であった吉備真備を左遷のため筑前守にした」ということでしょうな。入唐して唐帝国の官僚どもと丁々発止に遣り取りをしてきた空飛ぶ真備も、大和朝廷に巣食う公卿たちにははめられたようだ。
 この話には前段がある。高校の日本史で出てくるのだが「藤原広嗣の乱」というのがあったでしょ。山川出版の『詳説日本史』を引きますね。
鎌足の子、藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力をつくすとともに、皇室に接近して藤原氏の発展の基礎をかためた。》
 700年代初頭、剛腕政治家である不比等は右大臣に登って、皇族や他の士族を退けながら、娘の光明子聖武天皇の皇后に立てるなどして勢力を伸ばしてきた。不比等なきあと、その息子である武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の4兄弟が藤原家を盛り立てていかなければならないのだが、これが737年に猛威をふるった疫病のために、ことごとく亡くなってしまう。
 ここに登場するのが皇族派の橘諸兄(たちばなのもろえ)や吉備真備ということになる。要するに皇族派VS藤原家の権力争いなんですね。
 なにしろこの時期に当主4人を欠いた藤原家は弱い。政権中枢は皇族派に牛耳られ、藤原家はおもしろくない。とくに式家嫡男の藤原広嗣にしてみれば、官位を授けられ、大和守に任ぜられたところまではよかったが、その後、急転直下、大宰府の次官に左遷されてしまう。その結果の「藤原広嗣の乱」であった。
 乱は鎮圧され、広嗣は処刑されたわけであるが、こういった政治の混乱や疫病や天災までもが為政者のせいにされた時代である。
 時の聖武天皇は、広嗣の慰霊もふくめて、国家を鎮護するために毘盧遮那仏造立の詔を発した。
 真備は、時代にも恵まれ、疫病にも掛からず、空を飛びまわって(笑)、順調に中央政界でその地歩を固めていた。ところが疫病で身罷った武智麻呂の子の仲麻呂が巻き返してきたのである。この仲麻呂に疎まれた真備は筑前守へ都落ちとなる。理由は「藤原広嗣の祟りは真備のせい」というもので、ほとんど言いがかりと言っていい。まぁ遠くへ飛ばす理由なんてなんとでも言えるからね(笑)。
 この後、真備は再び中央への復権を果たすわけだけれども、後年、またその地位を失うことになる。空飛ぶ真備、波乱万丈の生涯であった。