石川重之

 戦国後期から江戸の初期に生きた徳川譜代の武士である。後半生は丈山と号し、文人として名をなす。生まれたのは天正11年というから、秀吉の天下取りの目途がついた近江賤ヶ岳の合戦の年である。18歳で関ケ原の合戦、32歳で大坂冬の陣、翌年夏の陣だから、この時には33歳となっている。今時と違って、この時代は30を超えれば大の大人であった。分別盛りというか、今で言えば、50代くらいの雰囲気だろう。
 それが夏の陣で、軍令違反の抜駆け、先登りをしてしまう。昨日今日、戦場に出たような若侍ではないのだが、このことを罪に問われて、徳川家を放逐される。
 後半生の重之の事績をたどれば、この人物がすぐれた文人墨客だったことが理解できる。武芸にも秀でていたが、単なる猪武者ではなく、きわめて明晰な頭脳をもった武士だった。
 重之、家康の寵愛は受けていたという。おそらくは、重之の明敏さ、勇猛さを妬んだ佞人が家康の周辺にいたのであろう。手柄を立てたものの、立て方の非違を責めて、重之にだけ恩賞を与えなかった。重之と親交のあった林羅山は「家康ほどの明君が重之だけに恩賞を忘れるとは何事ぞ」と非難したものである。
 しかし、このことで重之は徳川政権から離れ、その後、漢詩人として大成をするわけである。その後、90の長寿を生きて、詩仙堂や数多の詩、隷書を後世に残すことが出来た。あのまま、徳川政権の官吏として生涯をおくれば、ことさら面倒くさい殿中にあって90の長寿は全うできなかったろう。それに日々の公務に追われ、詩や隷書も中途半端なものに終わっていた可能性は高い。
 人生、なにが幸いするかわからない。軍令違反で冷遇されたことが、その後の石川丈山をつくりあげた。棺桶の蓋が閉まるまでその人の評価は定まらない。そういうことである。
 今日が石川重之、丈山の命日である。