石川重之

 家康の家来である。16歳で城に上がって近習となった。家康の名参謀の本多佐渡が叔父だから、家康のかなり近いところにいる三河武士である。

 父は駿河田中城攻めで負傷し、このために家康家臣団から離されて、郷士身分に甘んじた。これが重之の上昇志向に火を着けたようで、家康に仕えるべく、親族の武将を訪ね歩いている。姉の旦那の斡旋で、ようやく家康の身近に仕えるようになったのが、慶長3年(1998)のこと。その後、まもなく関ヶ原合戦があり、つねに家康の身辺警護にあたっていたのだろう。18歳の血気盛んな年頃ではあるが、近習という身分であり、すでに徳川家の軍事態勢は組織として固まっていて、近習が活躍する場面はない。一軍の将を目指そうにもなかなか目立つことはできなかった。

 重之、生まれてくるのが30年遅く、かつ、祖父、父ともに戦場では不運だったことが出世を遅らせた。というか出世しなかった。

 祖父は、長久手の合戦で戦死し、父は前述のとおり負傷して兵としての能力を失った。もし先代、先先代と壮健であったなら、おそらくは数万石の大名くらいにはなっていただろう。家康が、近習に上がった重之に「石川家は代々武勲の家柄である」と言ったくらいだからね。

 さて、関ヶ原合戦が終わり一時の平和が訪れる。そうなれば戦闘者の武士は、行政マンとしてしか仕事の道はなく、大坂の陣までの14年間を重之も江戸城駿府城などで日常業務に埋没をせざるをえない。

 それでもね、火事なんかがあるとはりきっちゃうんですね。慶長12年(1607)、駿府城で大火があったときに、25歳の重之は家康の子を火災の中から救い出している。一連の重之の行動を見ていると、ホントに戦場で働かせたかった。 

 それから7年が過ぎて、やっと風雲急を告げ、大坂の陣と相成った。ついに重之が待ちに待った活躍の場が巡ってきたのだが、この時も家康の幕下に組み込まれて、家康守備隊だから最前線には出られません。ここで、重之、家康に断りなく、親類を頼って最前線を担う加賀藩の攻撃部隊に加わってしまう。

 戦闘では獅子奮迅の活躍をして敵将の首を三つも上げたのだが、組織力を重んじる家康が、幕下を離れるという軍令違反を許すわけもなく、重之は蟄居と相成ってしまった。

 おそらく家康の近くで静かにしていれば、戦後、高禄の旗本くらいにはなっていただろう。それくらい土地的な出自が家康の近いところであるし、刈谷水野勝成でも十万石の大名になっているくらいだから、運と要領さえよければ、明治維新まで殿様然としていられたものを・・・。

 ここらがワシャが石川重之の好きなところなんだけど、重之、家康から蟄居を食らうと、さっさと剃髪して引退してしまったのである。経緯はいろいろあるんだけれど、なにしろさっぱりとした漢(おとこ)であったことだけは間違いない。

 その後、その性格を好む知人友人たちから、仕官を誘われ、紀州へ行ったり、広島へ移ったりするんですが、これも母親を養うためで、結果として母没後、京都に出て寺の傍らの堂に住み、文人としての生活を全うする。

 号を「丈山」。漢詩人、書家、京都詩仙堂をつくった作庭家として今もその名を残している。おそらく家康の近習としてまじめに勤め上げていれば、旗本か小大名くらいにはなれていたかもしれないが、大坂の陣で家康の近習だった侍の名前が残っていますか?もちろん『寛政重修諸家譜』などを調べればどこかに名前くらいは出てくるでしょうが、その程度のことで、さすがに「石川丈山」のような学究者としての名前は残せなかったと思う。

 若いころから禅に傾倒し、武辺なる者ではあったが、精神的哲学を備えていた。学術にも大いに興味を持ち、武断の時代から文治の時代へと変わっていく世を予見し、さっさと武を離れ、学問の道に邁進した丈山は格好いい。

 彼が京都に住んだ堂を「学甫堂」と言う。「学問を始める堂」という意味である。その道を極めて349年前の今日、詩仙堂から彼岸に旅立っている。90歳、もう仙人の域に達していた。