関ヶ原

 慶長5年9月15日早朝、関ヶ原に小雨が降っている。それが止み、霧になった。霧につつまれた関ヶ原に16万にもなろうかという大軍団が息をひそめて、その時を待っていた。

 前夜は大雨だった。豪雨の中、還暦を迎える徳川家康関ヶ原の桃配山本陣で野営している。これには驚く。16世紀の60歳ですぞ。平均寿命が50に満たない時代に、60歳の老翁が、最前線の陣地で雨に打たれて決戦の時を待っているなんて、ワシャには考えられません。まぁだから凡人なんですけど(笑)。

 午前2時、家康の出陣命令が下知され、徳川軍が行動を開始した。家康、寝ていない。

 午前7時、布陣を完了。その1時間後、霧が薄れた。敵を目視できた徳川軍は、井伊直政の発砲を切っ掛けに西軍へとなだれ込んでいく。

 兵の数では西軍が上回っていた。徳川家康旗下7万5千に対し、8万4千の動員ができている。しかし、勝利は数の少ない方にもたらされた。

 明治期に来日していたドイツ軍の将校は、この関ヶ原の陣立図を見て、ためらいもなく「西軍の勝ち」を宣言した。しかし、現実は東軍、家康の勝利だった。これには戦闘という表舞台だけで、戦いが進行していたのではないことを示している。要するに家康は「ハイブリッド戦」を実行していたのだ。

 さらに付け加えるならば、両軍のリーダーに大きな開きがあった。かたや家康は関東に二百数十万石を有する大大名で、秀吉亡き後の最大権力者であった。もう一方の石田三成は秀吉に重用されたけれども、石高十九万石では西軍の旗頭にもなれない。大坂城から豊臣秀頼を担ぎだせなかったところで、この合戦の勝負はついていた。 この点にも家康のハイブリッドな戦いがあったわけだが、どちらにしても粘液質で辛抱を苦とも思わない三河人家康の面目躍如の一戦だった。

「どうする家康」は勝った。そして日本国で盤石の立場を得た。三成は処刑され、三成の反乱に乗じて九州を平定し、その勢いをもって中原に鹿を追おうと動いていた黒田如水の夢もついえた。

 本州で徳川と三成を筆頭とする豊臣勢が小競り合いをしているうちに、九州をさっさと押さえにかかったのが如水である。あと半月も三成がねばっていれば、如水は九州の覇者となり、徳川幕府もそうそう簡単には成立できなかっただろう。

 そのあたりをラストに持ってきたいい小説が『関ヶ原』、司馬遼太郎さんの40代の名作である。関ヶ原の合戦が終わって「下河原」という一章を長編の最後に持ってきている。

 実はワルシャワ、この黒田如水という男が戦国期において一番好きな男である。くせ者であり、しかし洒脱であり、乱を恋う不届きものであった。この如水を大団円にもってくる司馬さんの巧さは如何ばかりであろうか。

「下河原」という一章、もし「どうする家康」を観るご予定がおありなら、ここだけでも読んでおく価値はあると思いますぞ。短い文章の中で家康を評していて、それが深い。お試しあれ(笑)。