ざっとの話だが、江戸期に全国の諸藩は300藩あった。徳川本家400万石は別としても、大は加賀100万石から1万石の極小藩までが日本の土地を分割していた。さらに旗本領もあり数千石から数石の単位で細かく分けられていた。
尾張は一国で尾張藩である。62万石の雄藩だ。付家老ということで犬山藩があるが、江戸城内に席を持っていないことから尾張藩の一部とみなしていい。
隣の三河である。ここは細かく分割されている。尾張国境から並べれば刈谷藩、挙母藩、西尾藩、岡崎藩、西大平藩、吉田藩、田原藩、その隙間を埋める旗本領が、それこそモザイクのように散りばめられている。尾張藩のシンプルさと比べると実に複雑だ。
そもそも三河は家康が天下を取るための、その土台となった土地である。三河30万石を譜代の大家に与えてもよさそうなものだと思う。津の藤堂家、彦根の井伊家、福井の松平家などが30万石クラスで東海地方周辺に存在する。ならば三河が一国で、功臣に与えられてもよさそうに思うのだが、徳川幕府はそういうことを265年の間、行わなかった。
それは三河を徳川幕府が政治的に使ったということらしい。「三河譜代」という言葉がある。家康が三河一国を統治していた頃からの家来をそう呼称した。家康が膨張期に入り、遠江、駿河、甲斐、信濃、そして関東の武士団を吸収していく。遠江の武士、駿河の武士など各国の武士団が徳川軍団の中に揃っていくわけだが、その核をなす武士団は、やはり「三河武士団」ということになる。彼らが家康に一番近く、扱いも一段高い。「三河武士」は特権階級の名乗りであった。後発吸収組から見れば「三河」は地名ではなく、一目置くべきブランドなのである。
そのことから拡大され「三河譜代」ではないけれど三河に領地を持っていることもステータスになってくる。「三河に領地が欲しい」ということが、譜代、旗本たちの悲願となったのではないだろうか。このために神聖なる三河は切り刻まれ、いろいろな家に与えられることになる。
徳川の統治体制からいえば、この方法は上手いやり方だったのだろうが、それが下って昭和、平成の世ともなると必ずしもよかったかどうか。藩というヒエラルキーの中に組み込まれたことのない住民性は、よく言えば村ごとの結束力が旺盛、悪く言えば村ごとのなわばり意識が強く、小さな単位からはみ出ることを極度に嫌う。なにごとも横並び意識があからさまで、突出したリーダーが出にくい風土が育まれた。
あるいは家康、己のような天下を狙う人材が生まれ出る土壌をつくらないよう、三河をずたずたに引き裂いて後世に伝えたか。どれも想像の域を出る話ではない。