大坂夏の陣はじまる

 2日前、石川丈山の話を書いた。そのときに丈山が城攻めの先駆けをして軍令違反に問われたことに触れた。

 1615年の今日、和暦では慶長20年4月28日のことなのだが、この五月晴れのころに、戦国最後の大一番である大坂夏の陣の戦端が開かれた。ただ、最終戦と言っても、ほぼ勝敗の行方は決まっていた。攻め手の徳川の圧勝である。すでに大坂方は、外交戦で負けていたのだ。
 夏の陣に先行して冬の陣があった。この時は、秀吉の遺産ともいえる難攻不落の大坂城と、真田幸村など優秀な武将が奮戦したので、なんとかドローに持ち込むことができた。
 ところが大坂方、その後がお粗末である。それも仕方がないことなんだけど、なにしろ豊臣家には人材がいなかった。大坂城主の豊臣秀頼を支えるのは、淀君を頂点とする女官軍団であり、補佐する男たちも女官につらなる豊臣貴族だった。
 これに対抗するのが、徳川の百戦錬磨の文官武官たちである。ある意味で戦国最強の官僚軍団と言っていい。大坂城の御殿の中で、雅にお暮らしあそばされている連中と、それこそ日本の津々浦々で海千山千の戦国武将を相手に丁々発止の外交戦を繰り広げてきた徳川譜代が勝負になるわけがない。
 豊臣貴族たちが社民党のように「平和よ平和よ和平よ和平よ」と浮かれている間に、徹底的に軍備を固め、豊臣恩顧大名を隔離してきたのだ。そんな強かな徳川に、最も大切にしなければならない最大の防御線であった外堀もあっさり埋め立てられる交渉結果は、情けないほどに哀れである。
 外交権を持たない真田幸村あたりは切歯扼腕したのだろうが、こればかりはどうしようもない。あくまで大坂城の中での序列は女官につながる大野治長のほうが高位なのである。

 だから家康にしてみれば、夏の陣は結果の出ている消化試合だった。冒頭で大一番と言ったが、実際には、横綱と引退寸前の幕尻力士の一番ほどの実力差があった。家康にしてみれば、むりなことはせずになるべく自軍の被害を最小限に抑えて、豊臣びいきの世論にも配慮したかたちで、圧勝に結び付けたいと思っていただろう。とはいえ戦(いくさ)は水物である。ちょっとした油断から、悠々の勝ち戦を落とすこともある。それを家康は恐れた。綿密な下準備、段取りをこの一戦のために構築してきたのである。それを三河譜代の家臣が軍令違反の先駆けをした。これは家康にとって不快だったに違いない。「千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴(けつ)を以て潰ゆ」ということなのである。盤石な堤に穴を穿とうとして、罪に問われ石川丈山は放逐されたということであります。