鎌倉幕府でよかった

 古典文学の勉強会で『問はず語り』を読んでいると、大陸に元帝国が勃興した時、日本に武家政権鎌倉幕府)が成立していて本当によかったと思う。軟弱な平安貴族が国家の権を握っていれば、日本は元帝国に呑みこまれていただろう。今頃、ワシャらは「ニイハオ、サイツェン」なんて言っていたかも。

 さて『問はず語り』のことである。著者は二条という中級貴族の娘、これが美女である。この女性がとにかくモテる。読んでいると、この女性のよさみたいなものがだんだん伝わってきて、同時代に見かけたら、ワシャのような石部金吾中納言でも「お、かわいい娘がいるじゃん」となったろう。
 この美女に目をつけたのが時の上皇である後深草院だった。上皇は二条の父親の大納言源雅忠に「おまえの娘を側室に上げよ」と命じる。二条、この時14歳だった。本によれば、文永8年(1271)の正月のことであった。時代背景をいうと、ちょうどフビライ・ハーンが国号を「元」に改めた年であり、東アジアの風雲は急を告げていた。でも、上皇は、若いネーチャンをそばに侍らすことばかりを考えていたのである。前々から狙っていたと告白しているところからも後深草院、かなり好色な男だった。
 後深草院のことに少し触れたい。後深草院、4歳で皇位につく。4歳ではなにも判らない。ただのお飾りの帝ということである。要は父親の後嵯峨院院政時代であり、すべてのことは後嵯峨院のところで決裁される。成長して自覚がわき、天皇という機能として目覚めても、貴族社会の中の権力者は父親の後嵯峨院であり、例えば後年であるが、鎌倉幕府から奏上されたモンゴル牒状の評議は後嵯峨上皇の院で行われていたりする。形ばかりの帝のすることといったら、女漁りしかなかったのかもしれない。
 二条という美少女に目をつけた時、すでに後深草院には6人の中宮、側室があって、おそらくはその他にも数多の女たちがまわりに侍っていたことであろう。
 そんな女房どもに囲まれた帝の生活が突然終わる。後深草天皇、17歳で後嵯峨上皇にむりやり譲位をさせられ、弟の世仁皇子が亀山天皇となるのだ。後嵯峨院、兄の後深草より弟の亀山に強い愛情を持っていた。かわいくない兄をいつまでも皇位につけておくと、亀山の目がなくなるとみた上皇は、帝が自覚を強く持つ前に芽を摘んでおこうということなのであろう。そんな扱いをうけて皇位を追われた後深草院が女にのめり込んでいくのも仕方がないのかもしれない。
 真面目なワシャは「国難元寇が九州に押し寄せるのは3年後である。こんなことをしていていいのか」と言いたくなるけれど、この頃の宮中はかなり頽廃的で、軟弱、柔弱な匂いがプンプン漂っていたに違いない。
 ワシャは武士の時代というものが鎌倉幕府成立前後から、昭和の終戦まで続いていたと思っている。そういった意味からいえば、昭和20年以降の日本は、平安時代の雰囲気に近いかも知れない。なにしろ平安貴族と同じで、祈っていれば神風が吹いて平和が訪れると確信しているからね。今、元寇が押し寄せてきたらえらいことになるぞ。