混沌と竜笛

 そうそう荘子の話です。
 月曜日の日記を読んでくれた友だちから、「混沌の話が『陰陽師』に載っていますよ」と教えてもらった。
 おおお、そうじゃった。『陰陽師』10巻目「夜光杯ノ巻」の中にある「無呪」という短編に出てくるのじゃ。すっかり忘れておったわい。
 それはこんな話である。
 京都の船岡山にあやかしが出た。それを安倍清明の親友の源博雅が見たという。それが怪異事件に発展していくのだが、いつもどおり清明が乗り出して解決をする。その種明かしを清明がするときに『荘子』の話を引きながらこう言う。
「この世にはな、その昔この世ができたおり、この世になりそこねた混沌が残っている場所があるのだ。あの船岡山の磐座には、その混沌、この世で一番古い神が祭られていたのだよ」
 その混沌神が眠っていたところを、名手博雅の笛が目覚めさせてしまったというのがことの発端だったという結末でした。
 
 この『陰陽師』を読んで三つのことを思った。

 もちろん『陰陽師』の話はフィクションである。清明が博雅に『荘子』を語ったという事実はなかったろう。でもね、清明たちが活躍した平安の世でも『荘子』は読まれていた。もちろん知識人であった清明荘子』を読んでいたことは間違いない。平安人の多くも「村上春樹」は読まずとも『荘子』は教養として読んでいたことだろう。そして、[内篇]の最後を飾る「渾沌」――『陰陽師』では「混」を使っているが『荘子』では「渾」を使っている――の話を読んで、「渾沌」を想像したに違いない。
 千年の時を超えて、同じものを読んで同じものをイメージしているこの不思議さよ。

 司馬遼太郎の『この国のかたち』に「“雑貨屋”の帝国主義」という話がある。この中に「異胎」という巨大な青みどろの不定形なモノが登場する。この物体は自らを「日本の近代」と名乗った。安倍清明船岡山のモノを「この世になりそこねた混沌」と表現した。それを聴いて、司馬遼太郎の話を思い出したのである。「日本の近代」を名乗る不定形な青みどろについては、『この国のかたち』を読んでいただくこととして、結論を急ぎたい。ワシャはこの青みどろも「混沌」なんだと思う。そして「混沌」は現代にもいると感じている。

「無呪」を読んで、久々に名手の笛を聴きたくなった。