胡蝶の夢

「知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるか」
 荘子がある時に、自らが蝶になった夢を見た。その時には自分が荘子であるとは感じなかった。目覚めてみれば、もちろん自分は元の荘子にもどっている。荘子は考えた。「荘子が蝶になった夢を見たのか、今の荘子が蝶の夢なのか」と。
 織田信長が好んだ謡曲に「敦盛」がある。
「にんげん五十年 化転のうちにくらぶれば ゆめまぼろしのごとくなり」
 人の世は50年ほどしかない。人を教化し悪を善に転化させていくことを思えば人の一生など夢幻のごときものだ。人生なんて儚いね〜、と謡っている、ような気がする。この解釈は自信がない。
 でも、人生が夢幻のようなものだということには頷ける。ワシャはかれこれ半世紀を生きてきた。ここにいて、キーボードを叩いているワシャより過去のワシャはどこにも存在していない。さっき、ちょっとぬるめのカフェオレを飲んだとか、まだ暗い庭先に新聞を取り出た時、朝焼けがきれいだったことなどが記憶として残っているだけで、その記憶が消えれば、その過去も幻と消える。カフェオレを飲んだことも、朝焼けがきれいだったことも無かったことになってしまう。
 ワシャが存在していたと信じている過去のワシャと、夕べ、夢で見たポーランドの草原と、どっちが現実なのだろうか。
 むむむ、荘子は難しい。