胡蝶の夢

 昨夜、リアルな夢を見た。色はもちろんのこと、具体的な触感まで残っている。あちらの世界に身を置いている時は、夢だとまったく疑っていなかった。その中でいろいろな体験をした。今、思い出してもそれは極めて現実的な世界だった。覚醒してみれば「一炊の夢でしかなかった」のかと笑い事になるのだが、夢の世界では切実に悩んでいる自分がいることも確かなのである。

「知らず、周の夢胡蝶となるか、胡蝶の夢周となるか」
荘子』斉仏論に出てくる有名な章である。「いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が壮周になった夢を見ているのだろうか」これは金谷訳。
 今は書庫のパソコンの前に座っている。意識がこっちの世界にいるので、あっちの世界の記憶はトロトロと溶けだして、記憶も定かではなくなってきた。すでに1時間ほど前に目覚める前のことは「夢だった」と思い始めている自分がここにいる。

 司馬遼太郎の長編小説に『胡蝶の夢』がある。幕末〜明治にかけて医師、洋学者として活躍した松本良順らが主人公となっている。この題が『荘子』から採られていることは言うまでもない。司馬さんもあとがきでこう言っている。
《たかが蘭方医学をひきうつしで学んだだけで、良順が、なまみの良順とはおよそちがったかたちで――たとえば壮周の夢の中の胡蝶然として――封建社会の終焉に栩栩然と舞いとぶというのは化性にも似た小風景といわねばならない。》
 司馬さんは、良順を幕末に栩栩然(ひらひら)ととぶ蝶になぞらえた。その良順が『JIN』の第3巻から出てくる。『JIN』が幕末の医学をテーマにしている以上、良順が出てくるのは必然といえば必然となんだろうが、二つの作品がこうやってつながっていくとおもしろい。読書の醍醐味ってやつですかね。

 ここからこのところ取りつかれている『JIN』の話になる。
『JIN』の主人公の南方仁も、現代と幕末を栩栩然(ひらひら)と舞いとぶ胡蝶として描かれている。
『JIN』の最終巻では、胡蝶と壮周が交錯する。幕末に生きることを決意した仁が現在にもどって、現在に生きている仁と出会ってしまう。幕末の仁はなんとか幕末に戻ろうとあがく。その仁がこうつぶやくのである。
「これが…夢か現(うつつ)かは解らない…けれどわたしは戻らなきゃならない…」
 夢か現か……幕末の仁は、咲という想い人を救うために薬品を掻き集めて幕末に戻る。1〜20巻までの幕末の仁の物語はここで終焉する。エピローグとして、現在の仁の別の話が付け加えられている。
 本来なら「現在の仁」は、一代前の「幕末の仁」がそうであったように、「前の代の仁」に遭遇し、また1巻から20巻までの物語を体験すべきだろう。これならば延々と同じことが繰り返されるので納得がいく。それがパラレルワールドとして存在していても同じだ。並行して存在する無数のワールドを、やはり無数の繰り返しとして仁が運動していく。
 しかし、最後の仁はこの無限の反復の中に入りこまなかった。意識を回復したときに、幕末ではなく現在に残ってしまったのである。それも不可思議なことに、幕末の記憶を残したまま……。
 ここが『JIN』の唯一の矛盾点だと思う。咲という幕末の娘に恋をした幕末に戻った「幕末の仁」。意識を回復した「現在の仁」はやはり咲への想いを抱えていた。咲への想いを持っているのならば、「幕末の仁」でなければならないのに、これでは胡蝶と荘周が重複してしまうことになる。
 う〜ん、だんだん訳が分からなくなってきた。
『JIN』をお読みでない方には、たわ言のような話になっちまいました。読んでいる人でもそうでしたか(笑)。

 夕べの夢があまりにもリアルだったものですから、つい『JIN』の話を思い出してしまいました。おやかましゅう。