黒い森 その1

 浅田次郎の短篇小説が好きだ。切なくて優しくて、少しだけ不思議な恐さがある。その不思議な恐さへの答えは作品の中で語られず、余韻は読者の心の中に残る。夜、一人の部屋で読んでいると、ふと、背後を振り返りたくなる。そんな、作品が多い。
 2006年発行の『月下の恋人』(光文社)の中に「黒い森」という短篇がある。これも不思議な話に仕上っている。未読の方もあるだろうから結末には触れないが、どちらかというと尻切れトンボというか、余韻を残すというよりも消化不良で終わっているような作品だ。
 男が美しい女との結婚を決意する。女のことは何も知らなかったが、これから一つ一つ知っていけばいいと思っていた。しかし、その時から男の周囲に混乱が始まる。それは女の過去というか存在そのものに関ることで、女の存在を知っている周囲の人は「急いで結婚しろ」と言ったり「止めておけ」と忠告したり、涙ぐむ同僚の女や、母親にいたっては初めて会ったその夜に「怖ろしゅうて怖ろしゅうて、あの女のそばにはかたときもおられん」と言って逃げ帰ってしまった。
 短編小説集というのは、おおむね前半に著者の自信作を持ってくる。2話3話あたりがそうだ。1話目にもそれに準じる作品を置くことが多い。それは、そのあたりまでが読者が我慢してでも読んでくれる限界だからだろう。そこで、いい作品に出会えば、惰性で最後まで読みとおしてしまうからね。短篇集『月下の恋人』は全11作品である。その中で「黒い森」は6番手、あまりいい打順とはいえないかもね。
 作品は原稿用紙38枚と短い。この中に主人公の竹中、恋人の小夜子、部長、同僚の男、同僚の女、相談役3人、会長、社長、営業本部長、人事部長、営業第三課長、そして母親である。短篇しては、登場人物が多すぎる。これでは読者が混乱してしまう。短篇の場合、主人公は1人で、主人公を巡る主要人物が2人、その他大勢が2人というのが限界と言われている。
(下に続く)