石の上に叩きつけられた造花

 本題に入る前に、朝日新聞を寛げている。ここ半年くらい「天声人語」がましになってきたと思っていた。ところがこのところ馬脚を現してきたというか……。11月10日のトランプさんに関するコラムも酷かったが、今朝の「天声人語」はコラムですらない。ネットで看板コラムを有料でしか読ませない新聞社もどうかと思う。無料登録をするとお情けで1本だけ読ませていただけるのだそうな。こんなコラムが読者に手間をかけさせてまで読ませるコラムだと思っているのか。
《ひと言の願いをかなえてくれる神様として親しまれる奈良・葛城山一言主(ひとことぬし)神社。イチゴンさんと呼ばれる神社にちなみ、願いごとをつづる「はがきの名文」コンクールが開かれた。2回目となる今年は応募2万7千点。胸に響いた3作を紹介したい▼奈良県明日香村の小5綿本優太君(10)は親友との仲たがい…》
 と、ここまでは「チラ見せ」で少しだけ読ませる。「天声人語氏」は「3作を紹介したい」と言い、ホントに3作を紹介して、最後に《大切な人への便りは手書きに限ると思い直した。》と締めるだけ。
 おい、大切な読者へのコラムは考えてから書けよ。ワシャは「天声人語」を半世紀にわたって確認してきたが、これほど手抜きのコラムも見たことがない。「最近の言葉」とか「追悼記事」とかいろいろな手抜き手法を編み出してきた「手抜き人語」であるが、これもあらたな新兵器である。名づけて「素人作品羅列作戦」。これをやっらたダメでしょう。全部で580字ばかりの短い文章である。その内の420文字が応募作品に費やされている。冒頭の「はがきの名文コンクールの紹介」が114字あったので、合計534文字を他から引っ張ってきた情報で埋めている。手抜きニストの紹介した応募作品は3作ともいい手紙である。ヘタなコラムニストなど充分に凌駕している。それにならべたプロの文章は定型的で貧相だ。
《手書きの文面が息づかいや心の温度を伝える。》
 言い古された言葉ですよね。「天声人語」だけで2000万円の年収をもらっている人がこんなありきたりのことを書いちゃぁいけない。
《ご多分にもれず当方もパソコンやスマホで打ってばかりいるが》
 って、真面目にキーボードを打っているのかなぁ。マウスで切り貼りばっかりしているんじゃないの(怒)。あまりにも情けなかったのでキーボートが炸裂してしまった(笑)。

 ここからが本題。
 ちょいと関わりがあって、昨日、安城市歴史博物館で開催されたピアノコンサートに顔を出した。演奏されたのは、バダジェフスカの「乙女の祈り」、シンディングの「春のささやき」、ショパンの「マズルカ 変ロ長調作品7−1」「スケルツォ第2番 変ロ短調作品31」などである。演奏者はこれまたご縁のある方で、ワシャが半世紀以上通っている駅前の書店のお嬢さんなのであった。書店の大奥さんもきれいなのだが、奥さんもきれいで、本人もきれいなのだった。
 使うピアノがロシアのJ.ベッカー社製のもので、おそらく日本に現存している同社のピアノはこれ1台ではないだろうか。これだけでも1時間や2時間は語れるいわく因縁があるど〜。
 しかし、それよりもである。このピアノは童話作家新美南吉安城高等女学校に在籍中、同じ空間にあり、南吉がじかにさわったグランドピアノであった。これが、発見され、修復され、往時の音が再現されるまでの話は、これまた3時間や4時間は尽きないネタがあるけれど、それも次に譲りたい。
 南吉とピアノのことである。
「講堂に ピアノ鳴りやみ 秋の薔薇」
 南吉の俳句である。J.ベッカーの音と、その後の余韻と静けさを、その空間に赤いバラを入れ込むことで、色合いもある句に仕上げている。
 南吉は、ピアノコンサートで弾かれた「スケルツォ」のことも日記に書いている。
《寺村さんがショパンを弾くとき、うしろに坐ってゐた一年生達はのびあがって鼻をくつつけるやうにして彼女の手を見つめた。その手はふくざつ微妙に動き、まさに子供にとっては驚異であった。とき折石の上に叩きつけられた造花のやうにぽうんと手がはねあがるのはどういふわけだらう。》
 ピアニストが鍵盤を強く弾く。その反動ではね上げた細いかいなとひろげた指が花のように見えたのだろう。「造花のやうにぽうんと……」とは、南吉のイメージの結び方がおもしろい。
 やっぱり南吉、只者ではない。