先日、名古屋で「能」を楽しんだ。「誓願寺(せいがんじ)」と「鉄輪(かなわ)」である。
「誓願寺」は、恋多き女、和泉式部の成仏の話で、悲劇が中心の能にあって珍しくハッピーエンドの結末を持つ。前シテも後ジテも美しい小面であり、若い女であるので衣装も華やかだ。
中入り後、和泉式部が歌舞の菩薩に昇華して仏徳をたたえて舞う。3回ほど気を失いそうになったが、この気を失いそうになる瞬間が能というのは素晴らしいんですな。小面は優雅に笑いはじめるし、舞台はゆらゆらと動き始めるし……。
「鉄輪」は良かった。シテを宝生流第二十代宗家の宝生和英が舞う。まだ若いけれど、足さばきなどなかなか美しい。声もいい。
笛方は尾張藩お抱えの藤田流十一世六郎兵衛である。さすが宗家だけのことはあって、「誓願寺」の笛方とは音の伸びが違う。お見事。でも、怖い顔をして控えるのは止めてね。
そこへいくと、囃子方は見事だった。大鼓は筧鉱一師匠、小鼓は後藤孝一郎師匠である。舞台に坐していても、これが自然体なんですね。表情も半ば眠っているような……気をつけて見ていないと、鏡板の松に同化してしまう。
筧師匠、大鼓を打った後、打った指がプルプルと震える。最初は、中気なのかとも思ったが、震えないときもある。ああ、あれでビブラートをかけているのだろうか。詳細は不明だ。
後藤師匠は凄い。小鼓を打っても音がないときがある。打っても鳴らない鼓とは……名人芸は違うなぁ。
また、ご両所の合いの手がいい。
「よ〜お〜、ごほごほ…ごほごほごほ……」
「よお、よ〜、ごろごろ……」
咳きこんだり、しわがれたりするのだが、それでもきちんと舞を支えている。そして邪魔にならない。うまい。私の隣に座っていた女性には、このご両所の仕草がうけたらしく一所懸命に笑いをこらえているようだった。能って楽しいでしょ。
さて、「鉄輪」の物語である。これは、夢枕獏の「陰陽師」の一話にもなっている。捨てられた女が男を恨んで、貴船社に丑の刻参りをするというもので、能も小説もオープニングは「日も数添ひて恋衣 日も数添ひて恋衣」から始まる。
舞台装置も階(きざはし)のところに三重棚や一畳台が設置され、能にしては大がかりだ。面も橋姫(生成)で、女から怨霊になる途中の面でおどろおどろしい。朱と金の鱗の衣装もあやかしを表している。でも、彼女は、女の性に翻弄される悲しい女にほかならない。物語のいたるところに女の嫉妬、恨み、深い悲しみが紡ぎこまれており、余韻の残るいい作品に仕上がっている。