徳川実紀

 ワシャの書庫には『徳川実紀』(吉川弘文館)全17巻がある。これは徳川家康から十五代の慶喜までの江戸幕府将軍の事歴を中心に叙述した史書でいろいろ面白いことが書いてあるんですな。
 十一代の家斉の巻にこんな記事がある。
天明七年二月廿三日、書院番頭小堀河内守正弘(3000石)。大久保大和守忠元(6000石)過失ありて職をとかれ、御前をとどめられ寄合となる。》
《同じく酒井紀伊守忠聴(7000石)、西書院番頭水上美濃守正信(3000石)、小姓番頭内藤安芸課見政範(5000石)、能勢筑前守頼直(4000石)、三枝土佐守守義(6000石)、小笠原播磨守宗準(4500石)同じく御前をとどめらる。》
 番頭という役職は将軍警護の部隊長なのだが、彼らがこぞってしくじったのである。何故か?その理由も実紀は詳細に語っている。
《このほど水上美濃守が番頭となり。正月十七日その亭に同役七人集会あり酒宴ありしが(中略)大和守忠元聞きて何事にや声あららげ、栗饅頭にては候はぬものをとて。手をさしのべその菓子をつかみ、側に陪せし妓女の顔へしたたかにうちつけぬ》
 この大久保の行為を切っ掛けとして、宴席は大騒ぎとなる。
《七人の者ども思い思いに悪口し、後はおのおの立ちあがり、その日饗応に出されたる賜物の調度をはじめとし、或は膳椀皿鉢まで、手に当たるものを打ち壊し踏み潰し。中にも甚だしきは大小便を席上にしたたかに垂れあらし。またそれを箸にて挟み、そこらあたりにうちつくる輩もありしぞ》
 仮にも徳川家の直参である。それもこの面々はトップクラスの旗本貴族と言っていい。それがこの体たらくである。家康の開幕以来180年が経過し、相当タガが緩んでいるのだろう。こともあろうに座敷で脱糞し、それを箸で摘んで座敷を駆けまわるとは……あ〜情けない。

 余談だが、後年、新選組が江戸に転戦し甲陽鎮撫隊を編成した時に、近藤勇は大久保大和と名乗っている。徳川幕府で大和守を称呼するのは175人存在するが、大久保姓で大和と称するのは、脱糞事件の大久保忠元のみである。つまり近藤はえらい人物の名乗りを貰っちまったんですな。これでは甲陽鎮撫隊、官軍に勝てまへんで。
 というようなことは『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』を調べると判るんですね。

 今、午前6時、外は豪雨になっている。歴史的大敗北を喫した自民党の涙雨だろう。