もし守山崩れが…… その1

 戦国中期、三河松平清康という人物がいた。徳川家康の祖父に当たる人物である。1535年の12月5日に守山(名古屋市守山区)に遠征していた折に、とち狂った家臣に斬殺されあっけなく死んでしまう。これを「守山崩れ」という。
 家康の家臣、大久保彦左衛門は『三河物語』の中でこう言っている。
「清康は、歴代当主の中でも傑出した人物で、30まで生きていれば徳川の天下はもっと簡単にやってきただろう」
 確かにそれは一理ある。清康の父の代は安祥城周辺を押さえる一土豪でしかなかった。それが清康の代になって三河全土をほぼ平定している。この時期の尾張は、織田信秀(信長の父)が未だ国内をまとめきれておらず、小豪族が群雄している状態だった。東の今川は太守とはいえ病弱な氏輝が当主のころである。病弱ゆえに領外に押し出してゆく覇気などなく領国経営で手一杯といったところだった。ある意味で戦国東海リーグでは、清康が一番勝ち残る可能性が高かった。
 1535年に清康が守山で家臣に殺されなかったとすると、早晩、尾張北部は松平家の版図に組み込まれていっただろう。織田信秀木曽川河口の限定勢力でしかなく、尾張三河国境の城を固めておけば脅威にはならない。三河尾張北部の石高を合わせるとざっと60万石になる。今川氏輝の領土が遠江26万石と駿河15万石合計41万石である。清康のほうに利があるのがわかるでしょ。
 そして1536年に今川の当主氏輝が病死する。それが引き金となって二人の弟が家督相続争い「花倉の乱」を起こす。この一方が後の今川義元である。もし、この家督相続戦に義元の対抗勢力である義元の兄の象耳泉奘(しょうにせんしょう)に清康が与したとしたら、確実に義元は排除されていた。家督争いに勝たせたとなれば、清康は当然のように遠州割譲を申し入れ、遠州三河兵を入れることは戦略的に充分あるえる。家督を継いだばかりの泉奘に清康の申し出を撥ね付けるだけの力量はない。結果として松平の傀儡政権とならざるを得ず、清康は、三河遠江駿河そして尾張半国の支配者として君臨する可能性は高いだろう。
(下に続く)