人群れ満ちる(1603)江戸幕府

 慶長8年2月12日(新暦では3月23日)、京都伏見城で待つ徳川家康のもとに勅使が到来する。『徳川実紀』にはこうある。
《勅使として巳一點に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。その他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帯なり。雲客以上は城中玄関にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。》
 天皇の使者が午前10時に伏見城にやってきた。「月卿雲客」は天子を日に、公卿を月に喩えたことから、位の高い公家のことを言う。高位の公家は轅(ながえ)に乗り(轅というのは牛車のこと)、小納言以下の身分の低い公家は輿(こし)に乗ってやって来た。彼らは全員束帯を着て、高位の公家は玄関まで牛車を乗りつけ、下位の公家は第三の門で輿を降りて城中に入った、というようなことが書いてある。
 御所から伏見城まで10キロほどあるから、牛車で3時間ほど掛かったろう。とすると公家たちは午前7時には御所を出発している。その前に天子より勅許をいただき、そのためには束帯を着けて御所に上がらなければならないので、下手をすると夜が白みはじめる午前4時には支度を始めなければ間に合わぬ。公家もなかなか忙しい。それでも伏見に向かう牛車の中では寝ていてもいいわけだから、本当に大変なのは牛車を操ったり、輿を担いだりする人夫たちだったろう。
 この一連のセレモニーによって、徳川家康は源氏長者となり征夷大将軍の宣下を受ける。ここから「江戸時代」という世界史の中でも奇観といっていい260年の太平が続くことになる。
 家康は、ワシャの郷土の英傑だが、豊臣秀吉が身罷ってからの権力を得るための権謀術数が臭い。いくら天下を取るためとはいえ、詐術に過ぎる。だからあまり好きではない。
 むしろ三方ヶ原で信玄に大敗し、浜松城に逃げ帰った頃の家康の方が正直で好感が持てる。馬上脱糞し、命からがら城に飛びこんだ情けない己が姿を絵師に記録として留めさせた若き家康の謙虚さがいい。家康はこの敗戦で多くのことを学びとって復活をしていくのだ。
 
 同じく三河の殿様ということで、この時の家康に、現在、リコールの大波をかぶっている豊田章男社長を重ねてみる論者がいる。
トヨタの態勢を立て直すことができれば豊田社長は家康になるだろう」
 愛知だけでなく日本の浮沈がトヨタの起死回生にかかっている。豊田社長が活発に動き始めた。この危機を乗り越えれば豊田章男の名は有能な経営者として一躍有名になるだろう。
 でも家康のように権謀術数家にはならないでね。