大坂の乱

 昨日は午後から慶長20年5月8日のことを考えていた。
 西暦で言えば1615年6月4日、大坂夏の陣、大決戦の翌日である。すでに大規模な戦闘は終息し、天下に覇をとなえた大坂城は無残にも焼け落ちて、見渡す限りの焼け野となっていた。
 この日の夜明けは午前4時30分ごろである。それから30分後の卯ノ刻には徳川方の大掛かりな探索が始まっている。もちろん行き方知れずの豊臣秀頼の所在を確認するためである。秀頼の情報は、元秀頼の傅人(めのと)だった片桐且元から入った。「秀頼は山里郭の糒蔵(ほしいいぐら)にあり」と家康に伝えてきたのだ。
 確かめてみると且元の情報通り、糒蔵の中に秀頼以下30人が身を寄せるように隠れていた。その吹けば飛ぶほどの小勢を5万の徳川勢が包囲しているのである。この状況で秀頼たちに自決以外に採るべき手段はない。午ノ刻、徳川方の一斉射撃に促される格好で、秀頼、淀君らは豊臣家に終止符を打った。この瞬間、家康の目指していた天下統一は成ったといっていい。
 勝利を確信した家康は、諸将から祝賀を受け、申ノ刻(午後4時過ぎ)に茶臼山の陣を払っている。旗本の板倉内膳正重昌に供の準備をさせると、わずか百ばかりで戦闘の熱気冷め遣らぬ大坂平野をこそこそと移動し大坂城へ向かった。大坂城を経て守口あたりで空模様がおかしくなっている。枚方ではどしゃ降りである。雨が上がったのは下鳥羽に入った頃で、その後、二条城に無事帰還した。
 この戦場離脱を、山岡荘八は「秀頼、淀君を救い出せなかったことを恥じて」の逃避であるとしている。司馬遼太郎は「豊臣家に殉じた人々の亡魂が家康を走らせた」と言う。
 ワシャは、その双方にも与しない。家康は三河山間部の濃厚なDNAを受け継いでいるのである。三河の田舎者に秀頼、淀君のことを思いやる優しさなどないわい。そして亡霊におののくようなロマンチストはおらんわい。
 家康が戦場から逃げ出したのは、もちろん己の保身のためである。戦勝に狂喜した兵士たちの異常さを骨身にしみて知っている家康は一刻も早く安全地帯に逃げ込みたかっただけなのだ。

 ということで本日も慶長20年に行ってきます。