八朔(はっさく)

 朔(さく)とは朔日(さくじつ)、つまり一日のことで、八朔は八月一日をさす。この日に徳川家康が江戸に入部したことから、徳川家一門では、祝日とされている。

 司馬遼太郎の『覇王の家』は、家康の75年の生涯を描いた佳作である。丁寧に家康の人生を紡いでいるのだが、天正14年(1586)から元和元年(1615)の間、およそ30年の歳月がすっぽりと欠落している。それはちょうど家康が江戸打ち入り前から死の前年までの時代で、まるまる江戸城での家康が書かれていない。
 とはいえ、別の作品でそのあたりを補完はしている。『関ヶ原』と『城塞』である。どちらの作品も家康は脇役であるが、『覇王の家』に書かれなかった時期の半分の動向は追うことができる。暦年で言えば、慶長5年(1600)以降だから、関ケ原を経て、征夷大将軍に補され、豊臣を大坂城に焚滅するまでの15年ということになる。
 つまり、秀吉との大坂城謁見を経て、北条征伐、江戸入部、秀吉の五大老になり、秀吉の死を見送る、この15年がどこにもない。いわゆる家康が秀吉の幕下につき、雌伏を余儀なくされる時期がまるまる抜けている。
 家康の本質は、秀吉の死以降にみせる、煮ても焼いても食えない冷酷な策謀家であろう。それは司馬さんもそう思っていて、戦国の覇者の中でも家康をもっとも好まなかった。本質を追従笑いの下に隠し、したり顔で、秀吉に取り入るのである。
 それにしても人は15年もの間、周囲を騙しとおすことが可能なのだろうか。これは生半な人物にできることではない。そのあたりの生臭さのようなものを司馬さんは嫌ったのだと思う。
 ただし、この時期は家康にとっても長い忍従の時期だったのではないか。もっとも風下に立ちたくない出自の卑しい人物に媚びへつらう15年は毎日が石塊を飲まされるような日々だったろう。そう考えれば、江戸入部というのは、忍従15年の始まりの年で、家康にすれば八朔は祝うべき日ではないように思う。
 ワシャも家康は好まない。しかし、合わない上司の下で、長きにわたって耐えつづけた精神力には恐れ入る。よほど秀吉亡き後に確固たるビジョンを描いていなければ、耐えられる時間長ではない。

 繰り返す。家康の子々孫々は、江戸入部をその後の一族繁栄の吉日としているが、いやいや家康にとっては臥薪嘗胆の始まった日と見るべきであって、今頃、泉下で苦笑しているに違いない。