真田昌幸

 歴史に「もし」はないけれど、「もし、この人がもう少し生き延びていたなら、きっと歴史が変わっていたに違いない」と想いを巡らすのは、実に楽しい。
 例えばこの人である。真田昌幸という戦国武将だ。

 先日、古本屋でこんな本を見つけた。『真田一族の史実とロマン』(東信史学会)である。信州上田周辺で販売された地域色の濃い郷土本。中に「長篠合戦」の記述があったので求めた。200ページほどの内70ページが真田昌幸について記されている。
 この人物、地方の小大名ながら、ネームバリューは高い。あの「真田十勇士」などにも登場する食えない親父様なんですね。この人、上田城攻防戦で徳川家康の軍勢と二度戦い、二度勝っている。「家康は城攻めが下手である」という風評はこのために立ったといっても過言ではない。
 最初の攻防戦はこうだ。信州東部から西上州に所領を持っていた昌幸は、徳川・北条の同盟締結のために上州の沼田を北条へ引き渡さなければならなくなった。これを不満とした昌幸は上田城に叛旗をひるがえし、家康は「余の命令に従わぬ憎くきやつ」とばかりに大軍で東信州に送りこみ上田城を十重二十重に包囲した。ところが徳川の大軍は、けっきょくこの小さな山城を抜けなかった。家康はこのころ天下人となりつつある豊臣秀吉の最大のライバルと目されている。その人物とがっぷり四つで鮮やかな勝利をおさめたのである。見事と言うほかない。
 こののち秀吉は死に、その死を待ちかねたかのように家康が兵を動かす。「関ヶ原合戦」である。家康、このときも面倒くさい男だ。一旦、上杉征伐として兵を集め、京阪から東へ向かう。わざわざ下野小山まで全軍を率いて、その場で豊臣恩顧の大名に「東西どちらにつくのか」を確かめた。黒田長政などはすでに言いくるめられており、加藤清正も納得ずくでここまで付いてきている。問題は狂人の福島正則を中心とする頑迷固陋な連中だった。そこで「小山談判」となる。
 家康は、豊臣恩顧の大名に対して徹底的な裏工作をして懐柔していた。その自信の上でこう言い放った。
「お歴々、この中で大坂方に加担したいと思われるお人があるかもしれない。そういうお人にはけっして邪魔立てをしないから陣をはらってお国に帰られよ」
 これを勿怪の幸いに、昌幸は軍を翻して、信州上田に還ってしまう。大大名であり東日本の覇者でもある家康の意に沿わぬことをあっさりとやってのけてしまう、真田昌幸という人物の大きさはいかばかりであろうか。
 そしてこの関ヶ原合戦の前哨戦のようなかたちで二度目の上田城攻防戦が始まる。二手に分かれた徳川軍の東山道部隊を上田城に釘づけにしてしまったのである。このために徳川軍は半分の戦力で関ケ原を戦わなければならなかった。

 徳川家康という天下人に一度も媚びず、靡かず、二度の直接対決の攻城戦に勝利し、それ以外の戦場においても一度も負けなかった男が、真田昌幸である。

 昌幸、慶長16年に死す。63歳であった。大坂の陣まで4年。もし、この老将がその合戦まで生き残っていたら、おそらく徳川の天下には定まらなかったと思う。秀吉の造った大坂城は天下比類なき名城であり、難攻不落といっていい。ハードは充分なのである。要するにそのハードを使うソフトがどうなのかということで、残念ながら冠でしかない豊臣秀頼にそれだけの力量はなく、冠を捧げもつ大野治長ら官僚組織にも無理な話だ。それでは昌幸の息子である幸村ならばどうであろう。
 残念ながら、歴史を観る限り幸村でも無理だった。幸村には天を覆うほどの才覚もあれば兵を動かす度量も持ち合わせてはいた。が、経験に裏打ちされた信用がなかった。やはり、家康と何度も戦いすべて勝ってきた老将の存在感は大きい。武田信玄上杉謙信織田信長などという伝説の覇者たちと対等に戦ってきたのである。そんな人物が、後半生、家康と対等以上に戦ってきた。このブランドが大坂城天守閣に治まれば、これはちょっとやそっとでは落とせなかっただろう。多分、この時期に家康が一番相手にしたくない人物、それが昌幸だったに違いない。

 家康の最大の強敵が死ぬ。あるいは家康、昌幸の死を待っていたのかもしれない。この後、風雲は急を告げ、にわかに大坂周辺は慌ただしくなっていく。
 399年前の今日、昌幸の一子幸村がその一族郎党とともに大坂城に入城をはたす。この行列に昌幸がいれば……歴史ファンの勝手な思いだが、またまた時代は面白くなっていただろう。