男たちの大和(続報)その2

(上から読んでね)
 映画とシナリオを比較してみたが、残念ながら映画に軍配を上げざるをえない。このシナリオを映像化しても感動しないし、観客も動員できなかっただろう。
 まず狂言回しを「遺族の娘」とする映画に対して「TVアナウンサー」とするシナリオではまったく観客の感情移入の度合いが違ってくる。「戦艦大和」にまったく縁もゆかりもない「女子アナ」が生き残ったことを隠し続ける男にからんだって何を引き出せると言うのか。
 また映画には少年兵神尾の幼馴染の少女が登場する。彼女は少年兵を見送りながら「うち、広島の軍需工場に行くんよ」と小さな声で言う(滂沱―!)。シナリオではまったくこの少女は出てこないのだ。だから主人公神尾の奥行きが出ていない。
 そして映画のほうでは重要な役である「臼淵大尉」がシナリオから欠けている。だから「死ニ方用意」「日本の新生にさきがけて……」などの名せりふがない。
 シナリオのラストは、生き残った神尾老人が大和沈没の現場でシャレードである「恩賜の時計」を海中に落とすというものだ。おいおいまるっきり「タイタニック」のコピーじゃないか。映画の、生き残り兵の遺骨を撒くというエピソードのほうが随分とスマートだ。
『シナリオ3月号』ではライターの桂千穂が「男たちの大和」から降りた(降ろされた)老脚本家を絶賛してはいたが、作品としては映画の勝ちだった。桂は論評をこう結んでいる。
《完成した映画は、率直に言って60年前、巨匠安部豊監督の手で作られた新東宝戦艦大和』より迫力もあるし丁寧に出来ている。》桂さんわかっている。《しかし阿部版のラスト、撃沈されて波間を漂う舟橋元のナレーションには、戦争への痛恨がにじんでいたように思う。》と苦しく老脚本家の顔を立てている。
制作と脚本家との軋轢は読者には関係ない。シナリオ誌は脚本家の愚痴雑誌かな?シナリオ誌は大昔から読んでいるが脚本家という視点はあっても「読者」という視点が欠落している。こんなことをしているからシナリオがいつまでたっても読物にならないんだ。