男たちの大和

 佐藤純彌監督の訃報が届いた。生涯にわたって大作を手掛けられた名監督もついに旅立たれたか。

 監督作品を最初に観たのは『新幹線大爆破』だった。高倉健主演で、5億円を超える製作費は当時としては破格の映画と言っていい。以降、『人間の証明』、『野生の証明』、『未完の大局』、『空海』、『敦煌』、『おろしや国酔夢譚』と大作を完成させていく。どれもが映画の本道をいく娯楽作品であった。観終って、映画館から出てきた時に「あ~おもしろかった」と言えるものばかり。小津や溝口、黒澤とはまた違った形の監督で、ワシャは佐藤さんの娯楽性にこだわる姿勢は好きだったなぁ。

 佐藤さんは2005年に『男たちの大和』を製作している。これは最初に劇場で観たときに、ワシャは最初から最後までビー泣きだったんですぞ。それほどの感動娯楽大作だった。『男たちの大和』は、佐藤作品の中でもトップに位置する作品だと確信している。大作としてのダイナミズム、リアリティもあり、その上に肌理の細かい人間模様が描き出されている。狂言回しの若き水兵(松山ケンイチ)をうまく使って、上官の森脇二等兵曹、内田二等兵曹など大和の乗組員の苦悩を描きこんでいく……佐藤監督の力量には脱帽である。ご冥福を祈りたい。

 奇しくも訃報を知らせる新聞の投書欄に「戦艦大和の船底で緊張の試運転」という投稿があった。広島県の94歳の方の体験談である。大和の試運転に技術者として参加したことを思い出として語っておられる。

 この投稿、朝日新聞には珍しくとくに「反戦」ということでもなさそうな内容で、この方が体験された大和の歴史を淡々と語るのみで、文末は《大和は37年の起工で、就役した41年には既に航空戦へと変化していて、時代に対応できなかったことは、教訓として記憶すべきだと思います。》と締めているだけである。

 確かにその通りで、時代の趨勢を見誤った軍首脳部の責任は大きい。この事実は、保守であっても愛国であってもリベラルであっても、なんら変わるものではない。そのことは佐藤監督でも、リベラルサヨクの嫌いな百田尚樹さんでも一緒なのである。

 リベサヨは「戦争映画」と見ると一様に眉をひそめるが、そんなことはない。佐藤監督が過去に支那中国のことを理解していたかは、過去の作品群を見れば一目瞭然だ。そして『男たちの大和』に貫かれている思想は、朝日新聞に投稿した広島県の男性とまったく同じものである。

男たちの大和』を見終って、「戦争がしたいぞ!」と思う人間なんかいないのだ。そう思っているのは左巻きのわずかなキ印だけで、間違った戦争がいかに悲惨なものかを痛感するいい戦争映画だと思う。

  でもね、左巻きの人は、こういったものを観ることを端から忌避をする習性をもっている。先日、読書会の二次会で、話が百田尚樹の『永遠の0』に及んだ時、それまで普通の表情で会話していた女性が「百田尚樹なんか読めません!」と言い出した。あちら側の人は、そういう時にガラリと表情が変わるので怖い(笑)。

 ワシャが「頭から否定するのではなくて、一度読んでみることも大切だと思う」と丁寧に説得し、多少表情も緩んできたのだが……。

その女性と長い付き合いの元教師が「百田尚樹など読む必要はない」と断言してしまったので、これでまったく取り付く島がなくなってしまった。

 これでこの女性は、「戦争映画」や「戦争に関わる小説」を一生目にすることはなくなった。

 おそらく『男たちの大和』も「男たち」だし「戦艦大和」だし、件の女性は、この手のものを生涯観ずに過ごすのだろう。それはそれでいいけれど、左の人は頑なだからなぁ(哀)。

 ワシャなんか支那中国のプロパガンダ映画の『農奴』を観て感動したし、『ジョニーは戦場へ行った』にも感銘を受けた。ソ連プロパガンダ映画も山ほど観てきた。でも、こんなもんですけどね。

 いろいろなものを多彩に吸収し、そして判断をすればいいのではないか。