なにしろ板についたものが好きだ。歌舞伎、演劇、能、文楽、蒲鉾……。なんでそんなに板の上が好きなのだろうと考えてみたら、ここに書いてあった。
2011年12月に脚本家の市川森一さんがお亡くなりになられた時の日記である。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20111211
小学校の頃に、父の書棚に『学校劇』(国土社)が何冊も並んでいて、それを何度も読んでいるうちに脚本を読むのが好きになった。同じ並びの棚にシェイクスピアもあったが、学芸会の台本とシェイクスピア文学では、形式は同じでも歯ごたえが違った。
なんとかシェイクスピアを読めるようになったのは、大学に入ってからかなぁ。その頃は映画にも凝って、小津映画や黒沢映画のシナリオを読んだり、ドラマでは倉本聰、市川森一、山田太一などを漁っていた。それでもやっぱりシェイクスピアは難しかった。
そもそも自分の中に当時のヨーロッパの知識がない。時代背景が見えない。福田恒存の名訳を目で追ってはいるが、中世の城郭をイメージできなかった。
年を経て、亀の甲にもわずかばかり藻が生えだして、そうすると中世城郭の映像なども引き出しの中に入りこみ、シェイクスピアの記述が少しずつ理解できるようになった。
それでも近松門左衛門とか歌舞伎の台本になると、さらに厳しかった。福田さんはまだ現代語で書かれているが、近松となるとこうはいかない。
「涙の糸の結び松。棕櫚の一木の相生を。連理の契りになぞらへ露の憂き身の置き所。サアここに極めんと……」
さあ、さっぱり解らなかった。だが、これも年を経て少しずつ読解できるようになってくる。体験を積むということは大切なことである。
日日、勉強(というかどうかは疑問であるが)をして板についたものをもっと好きになろうっと。