源融(みなもとのとおる)という貴族がいた。
 平安朝の始め、もっとも天皇の権威が顕示されていた時代のことである。桓武天皇の後を嗣いだ平城天皇が「薬子の変」で失脚して弟の嵯峨天皇が即位をする。弘仁14年(823)のことである。この天皇、随分と精力家だった。文雅に通じその筆跡は空海橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と称されるほど実力で、詩文においては勅撰漢詩集の「凌雲集」を編纂したりもしている。また多くの女性を愛し(手もとの記録では皇后以下29人)、50人もの子宝に恵まれている。この子どもたちの中から後に嵯峨源氏と呼ばれる一類が繁栄することになる。この中に融もいた。
 融は承和5年(838)に15歳で加冠し、その後、従三位、参議とすすみ、貞観6年(864)で中納言、同14年に左大臣にまで登る。時に融50歳のことであった。しかしこの頃には藤原一族の台頭が著しく天皇親政の時代は終わりを告げていた。このために融は太政大臣藤原基経に横取りされ、これを機に野に下り隠遁生活を送るようになる。
 融が京都東六条の加茂川のほとりに贅を凝らして造営したのが別荘河原院である。歌枕で名高い奥州塩釜の浦にあこがれ、邸内にその風景を模した庭園を造り、難波の生みから汐を運ばせて焼いていたとのことだ。融の死後、その子昇、宇多上皇と持ち主が変わり、最終的には宇多上皇の寵愛した褒子が住居としたが、融の亡霊が出るということで、いつの時代かは特定できないが寺になっている。その後、久寿2年(1155)年に炎上してしまったという。
 この場所を舞台にして演じられる能が「融」である。
 実は先週末の名古屋能楽堂の定例公演がこれだった。早めに仕事を切り上げて駆けつけたわけだが、なかなか見ごたえがあった。シテは名手大槻文蔵、彼の立ち姿はすらりとしていて、実に美しい。後シテの融大臣(とおるのおとど)も気品のあるすらりとした貴族の雰囲気が漂っていた。それに足運びに迷いがない。巧いなぁ。
 月の光を浴びて融大臣の亡霊は河原院の荒れ果てた庭で舞い狂う。しかし月が傾くにしたがって、融の幻影も薄れていく。
《月もはや 影傾きて明け方の 雲となり雨となる この光陰に誘われて 月の都に 入り給ふよそほひ あら名残惜しの面影や 名残惜しの面影》
 鼓や笛の音に身を委ねて、幽玄の世界に夢うつつとなっておりましたが、1週間のストレスが雲散霧消しましたぞ。
 午後9時前に終演し、能楽堂から外に出ると十三夜の月が中空に掛かっている。肌寒さを感じたので上着を羽織った。秋は確実に深まっている。