片桐旦元(かたぎりかつもと)のこと

 1615年の今日、駿府で一人の老人が息を引き取った。
 旦元老人、かつては豊臣秀吉子飼いの臣であり、賤ケ岳七本槍といわれ福島正則加藤清正と並び称されていた武勇の人である。賤ケ岳の合戦以降は鳴かず飛ばずで、両雄に大きく水を開けられてしまった。正則が尾張20万石、清正が肥後25万石の太守になったときでも旦元は1万石そこそこの茨木城主でしかなかった。
 その後、旦元は秀吉の一子秀頼の傅役につけられることから、秀吉の信任はあついと思われるのだが、それにしてはこの1万石そこそこの評価が解せない。
 あえて理由を見出すとすれば両雄が秀吉縁故のものであるのに対して旦元は近江での新規採用者であったからであろうか。
 とにかく旦元、石高では評価されなかったが常に秀吉の旗本としてその幕下にあり秀吉を支えた。そして秀吉亡き後も豊臣家の家宰として秀頼に仕えるのである。
 ただこの人、愚直な性格で臨機応変に時宜に対するという要領よさはなかった。それ故に大坂の陣前夜に徳川、豊臣の政争に巻き込まれて心身ともボロボロになってゆく。
 大坂夏の陣終結したのが5月8日、時を待たずして四万石に加増されたのも束の間、陣後20日で駿府に急死している。豊臣家を己が手で葬ってしまったことや政変の中であまりに不甲斐なかったことなどが老人のストレスとなり、その命脈を断ってしまったのだろうか。
 この人物の画像が京都玉林院に蔵されているが、そこに描かれた面差しには眼の下に幾重にも皺が刻まれており、晩年の苦悩がそこに現されているような気がしてならない。
 戦国時代の脇役ではあるが気になる人物の一人である。旦元の人となりは坪内逍遥の「桐一葉」に詳しい。