2月12日に

 政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人間の歴史ははるかに輝かしいものになったと思う。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことにわずかでしかない。

 それよりも利害で動くということは大いにある。だが維新早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していなかった。むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きいと言える。

 

 以上の文章は司馬遼太郎の『翔ぶが如く』から、ほんの少しだけ文を換えて引用した。場面としては、大久保利通ら外遊に出る主要閣僚と、留守を守る西郷隆盛らが対立するあたりの記述にある。その辺りのシーンがワシャの脳裏を偶然よぎったんですね(笑)。

 

 この場面から岸田首相のことを考えたい。この人も「論理」という点ではご多分にもれず、ほぼ持ち合わせていない。

「火の玉になって信頼回復」とか「異次元の少子化対策」などという戯言(ざれごと)を平気で言ってしまうくらいだからね。

 おそらくワシャが見てきた限りでは、この人から論理的な発言を聴いたことがない。生で演説を拝聴した時も「手帳が~手帳が~」と手帳のセールスをやっていたくらいだ。

 では「利害」で動いているのか?

 これはまさにドンピシャで、親族に関係者が何人もいる財務省の利害代表であることは間違いない。さらに外国人移民労働者の受け入れに積極的なところも、近い親族にそれを商売にしている人物がいるとかね・・・。

 ならば残された「感情」はどうだろう。

翔ぶが如く』の中では、西郷隆盛板垣退助の「感情」は評価されていない。しかし、ダイナミックな政策を断行しようとするとき、ある程度の「感情」、あるいは「感情」に見せかけた行動が必要であるとも思っている。

 そこで岸田首相である。皆さんもお気づきだと思うが、ワシャには、岸田首相の会見、答弁、演説のどれを見ても「感情」というものが一切感じられない。目が死んでいる。要するに人の書いた原稿を読んでいるか、言われたことをそのまま口にしているとしか見えない。ある意味で「感情」がないと言ってもいいだろう。これは一国の宰相としては致命的だと思う。

 岸田首相は、周辺の人間に対して「自分が辞めて何か解決するならいつでも辞めてやる」と言ったそうな。

 そんならさっさと辞めてくれ。そうすれば少なくともいくつかの愚策は停止し、日本国民の生活は向上する。

 でもね、この「辞めてやる」という感情的な発言すら、感情がこもっておらず、さらに言えば論理的ですらなく、利害にガチガチに固められているのである。

 我々日本人は、明治維新以降で最も愚劣な宰相に命を預けていると考えたほうがいい。

 

 今日は、「菜の花忌」。昭和を代表する思想家の司馬遼太郎さんが逝って28年。日本は司馬さんが憂いていた頃よりさらに悪くなっています。ここ1年くらいが最悪と言っていいほどひどい状況です。

 どうすれば論理もなく、利害ばかりに走る政治家たちを覚醒させることができるのでしょうか?日本をしっかりと導いていってくれるリーダーは出てこないのでしょうか?