傑人

 164年前の今日。江戸っ子の侍が、家人に「ちょいと品川まで行ってくるよ」と告げて、赤坂の家を出た。勝麟太郎義邦、後年、海舟と号した男が品川まで用足しに出て、そのまま咸臨丸に乗り込んでアメリカまで行ってしまう。どこが「ちょいと」やねん。家人はみな呆然としたことだろう。

 こういうふうに歳時記風に「今日、何々があった」と書くときは、ネタがないか、まとまらない時なんですね(笑)。

 昨日、所用で名古屋の東部まで車で出かけたんだけど、国道1号で、ものすごくうるさい音を立てているオートバイと並んだんですわ。大音量で周囲にわけの分からない音楽を垂れ流しやがって、さらにその爆音がとんでもなく大きい。マフラー壊れてんじゃねえの?と思うくらいに。バカがバカを晒して公道を走っている・・・このことを日記に書こうと思ってメモしたんだけど、バカの話は膨らんでいかず、諦めてしまいました。

 だから「歳時記」をめくり「1860年勝海舟ら、咸臨丸で品川を出港」という記事を見つけて、これにしようと思ったんでヤンス。

 

 ワシャは幕末明治の武人・政治家の中でも勝海舟には好感を持っている。まず、江戸っ子ってところがいい。意気でいなせだあね。これから太平洋を小さな蒸気船に乗って渡っていくという大冒険をするってえのに、「ちょいと品川まで」とだけ言い残して出かけますか?

 おおよそ勿体をつけた昨今の政治屋なら、出発式だの見送りの会だのセレモニーをやりぎりやって米国渡航にいたるんではないでしょうか。この淡白なところが格好いいんですね。

 もう一人、格好いい武人を紹介したい。日本陸軍の根本博中将である。彼は、終戦時の支那戦線の最高責任者であり、在留日本人、軍属、兵員35万人を日本に送り届けて、最後の引き上げ船で帰国した。前線からさっさと後方に逃げてしまったインパール牟田口廉也のような将官が多い中、さすが日本男児という人であった。

 でも、この人の凄いところはこれだけじゃない。復員して3年後の1949年、58歳の根本は、東京郊外の自宅を「ちょっと釣りに行ってくる」と言い残して出かけたのである。当時58歳、陸軍で功成し名を遂げた中将で、現役から離れ平和な日本で隠居生活を送る普通の老人だ。

「ちょっと」と言って、そのまま九州宮崎まで行ってしまう。そこから台湾へ密航し、台湾軍の軍事顧問(中将)として金門島の戦いなどで大活躍をして、現在の台湾樹立の礎をつくった。

 

 なんでしょうかねぇ、この格好いい男たちは。「ちょいと」とか「ちょっと」の先にある尋常ならざる労苦を屁とも思っていない。さっさと出掛けていって、重責を担い、大事を成し遂げて、再び何事もなかったかのように戻ってくる。

 いったいなにが彼たちを突き動かすのだろうか。凡夫でしかないワシャには憧れることはできても、真似をすることはできない。

 

 ワシャはかつて防災の仕事をしていた。その関係から、4日前にとある筋から連絡が入った。

ワルシャワさん、能登に入りませんか?」

 ということだった。ボンクラ政治家が地震直後にパフォーマンスで現地入りしたのとは違って、しっかりとした長期計画に則った支援作戦の一環の話だった。

 しかし折悪しく、Kが死んだ直後の話だったので、通夜・葬儀のことが脳裏を占めていた。Kの死で気落ちしていたこともあったのかもしれない。それに急な話だったし、数日前から体調もすぐれない・・・。

 ええい、言い訳は何とでも言える!

 要は、ワシャに根性がなかった。お誘いを受けて、すぐさま家人に「ちょっと能登まで行ってくる」とは言えなかった。

 これが勝や根本との大きな差だろう。5年前のワシャなら速攻で現地入りしていたのだが・・・。

 と、これも凡夫の言い訳。

 

 日本保守党の党首であり作家の百田尚樹さんが、癌を公表し、入院・手術をされた。無事に手術を終わった後のX(旧ツイッター)がこれだ。

《今回、ガンになって、いろいろと考えさせられました。健康の大切に気づいたのはもちろんですが、それよりも、人は何のために生きるのか、誰のために生きるのか、をあらためて突きつけられました。仮にガンが完治しても、私に残された時間は多くはありません。天から与えられた時間に、少しでも世のため人のためになることをしたいなと思いました。》

 格好いいなぁ。

 これに対して、高須克也先生のリポストがまたいい。

《そんな難しいこと考えるのやめなはれ。せっかく人生劇場の舞台にたてるんやさかい、人生を楽しまなあきまへん。わし、ステキなフィナーレやりまっせ。》

 このお二人も、勝、根本に並ぶ傑人である。