司馬さん遼かなり

 菜の花忌の後、司馬さんの作品群の中からいくつかを拾い読みしている。その中に『ビジネスエリートの新論語』という一冊があった。この本自体は、平成28年に文春新書として出版された本だが、これの初版は昭和30年というから、ワシャが生まれるはるか前に出版された本である。ワルシャワくんの影もかたちもなかった頃に、「すでに若き司馬さんはここまで到達していたのか」と思うと、悲しくなってくる。司馬さんの著書を読みまくって、それも何度も何度も繰り返し頭に叩き込んだつもりなのだが、凡夫にはなかなか沁み込んではこない(泣)。

『ビジネスエリートの新論語』の著者は福田定一となっている。まだ、司馬さんが「司馬遷、遼かなり」と思い当たる前の、本名での著作だった。そして福田青年、このとき32歳である。

 おいおい、ワシャの年齢の半分じゃないかい!それでこの知性の差には愕然とする。凡夫はどこまでいっても凡夫でしかないのか。

 その答えも司馬さんは用意されていて、新書の131頁に「停年の悲劇」というエッセイで答えている。冒頭にオスカー・ワイルドの「老年の悲劇は、彼が老いたからではなく、彼がまだ若いころにある」という言を挙げて、それに沿って32歳の司馬論を展開する。詳細は書かないけれど、停年を控えている方は一読する価値があると思うのでお勧めしておく。最後のフレーズだけ写したい。

《要はサラリーマン個々が、人生に緊張感をもつかもたぬかで決まろう。毎月の月給を三百六十回ノンベンダラリと貰っただけで人生の活動期を終える人物なら、何とも申しようがないが、もし成すあろうとするならば、三十年の歳月は、十分に人間を育てうる。》

 このフレーズにはワシャも若い時に触れていたはずなんだけどなぁ。十分にワルシャワは育っていないなぁ(トホホ)。