巌穴(がんけつ)の士、趨舎(すうしゃ)、時あり

 ワシャは自分の思考の均衡を保とうと多岐にわたっていろいろな活字に当たっている。

 例えば「朝日新聞」、これには毎朝目を通す。だからリベラル、左翼の考え方がよく解る。頻繁ではないけれど岩波の月刊誌『世界』なんかも図書館で手に取っている。その図書館、「赤旗」もあるんで、手に取るには少し勇気がいるけれど(笑)、時折確認することも。

 最近、保守色が薄くなってきたので毎号は買わなくなった「文藝春秋」も、2月号は購入しましたぞ。前駐中国大使の垂秀夫氏の手記「駐中国大使、かく戦えり」がおもしろそうだったし、日本共産党を除名された松竹伸幸氏と作家の佐藤優氏の対談にも興味を引かれたし。

 保守雑誌では『WiLL』や『Hanada』も購読しているので、ワシャの考え方はとてもバランスがいいのだ(バカ)。

 バカの話はどうでもいい。『WiLL』4月号の巻頭言のことである。今日のタイトルもそこから引いた。

「巌穴の士、趨舎、時あり」(がんけつのし、しゃよりおもむくに、ときあり)である。

 中国哲学史の泰斗である加地伸行先生の巻頭言「朝四暮三」のお題で、『史記』伯夷列伝にある言葉だ。

 巻頭言の内容は、偽名を使って逃げ回っていた極左過激派の指名手配犯が、病院で死ぬ間際に「本名で死にたい」と言い出したことに違和感を覚えた・・・というもの。先生は言われる。

「長い長い人類史において、姓名は特別の意味を持ち、そこには根本の原則がある。その姓を名乗る一族の一人であるという重要証明。だから一族の名に恥じる行為を犯した者は、一族の系図から名を抹消される」

 偽名での逃亡生活の果てに、病院で最期を迎えた某が名乗り上げても遺体を引き取る一族はいなかった。

「悲しい話である。けれども、親戚には一族という立場があり、それは正しい。だれが石を投げられようか」

そういった話の末尾を先生は「巌穴の士、趨舎、時あり」で締めくくった。訳は丁寧に書かれてある。

「巌穴(見えない地)の士(立派な人物)、舎(すまい)より趨(世のために現れる)、時(たいみんぐ)あり」

 ううむ、凡夫のワルシャワにはこれでもちと難しい。

 ちょいと、『史記列伝』(岩波文庫)調べてみた。

《岩屋にかくれすむ士が、世に出るか出ないかは時運によって異なる。》

と、あります。これでも解らないので、この文の前後を読むと、「ああなるほど」となりました。

前《伯夷と叔斉は賢者であったけれども、夫子(孔子)のおかげでその名はいっそう彰(あら)われた。顔淵は篤学のひとであったけれども、蝿が名馬のしっぽにくっついたごとく、行いがいっそう顕(あら)わとなった。》

後《村里の人は、行ないにはげみ名を立てんと欲しても、青雲の高き人(孔子のような人)にとりすがらないかぎり、後世までつたえられることが、どうしてあり得ようか。》

 残念ながら、病院で死期を迎えた某が、そこでいくら本名を明かしても、そもそもが青雲の高き人にとりすがって篤学したわけでもなく、その後の人生を賢者として生きたわけでもなく、犯罪者の名を世に伝えようと思うのはいかがであろうか?

 というように先生は仰っていると、凡夫ワルシャワは考えました。