固まった大関

 まず、今日は訂正から入りたい。

 一昨日の日記で、東郷町のボンクラ町長のことを書いた。その時にボンクラが部下に対して「三流大学以下の奴ばかり」と罵声を浴びせたことに対して、ワシャは一流大学の名を挙げて《凸凹商事の同僚にも、何人か名古屋大学卒がいたが、押しなべて仕事ができない人材が多かった》と言った。

 それは現実にそうだったので、まったく訂正する気などないが、名古屋大学卒で拡大されてしまうとワシャの部下にいた優秀な男たちまで含んでいるように取られると、それは本意ではないので訂正させてくだされ。

《凸凹商事のワシャの同世代にも、何人か名古屋大学卒がいたが、押しなべて仕事ができない人材が多かった。ただし部下には優秀な社員が何人もいた。》

 

 さて、本題。

 昨日の大相撲九州場所5日目である。

《まったく手をつかない豊昇龍に館内騒然 取組後の睨みに元松鳳山「顔じゃないよという雰囲気」》

https://news.yahoo.co.jp/articles/4cbf84fd713d83d0925d860e07180e6390978728

 結び前の重要な取り組み。大関豊昇龍と平幕豪ノ山の一番である。読売新聞の記事を引く。

《仕切り線に右手をついて待つ豪ノ山に対し、受けて立つべき豊昇龍は全く手をつかず、ただ相手をにらみつけるだけ。1分以上にわたって何もせず、行司の促しも無視した。》

 正確には1分18秒、豪ノ山が右手をついてから、この間、豊昇龍は手をつこうとしなかった。結局、動かない豊昇龍にしびれを切らした豪ノ山が立ち合いをきらった。こんな異様な取組は、相撲ファン歴の長いワシャですら見たことがない。中腰で手つかずのまま、一方の力士(それも大関)が固まっている。異様というより滑稽だ。

 立ち合いというのは力士同士が呼吸を合わせて成立させるものなのだ。それを大関ともあろう者が平幕相手に、びびって呼吸を合わせられないなんて、これほど恥ずかしいことはない。豊昇龍は高須クリニックの高須先生のご贔屓力士だから大目に見ようとは思っていたが、どうにも始末が悪いね。土俵に対する敬意、相手に対する礼というものが見られない。とにかく勝つことだけしか頭にないようだ。

 大関という地位からして、平幕に合わせて立ち合いをしても勝つ・・・それくらいの余裕を見せなさいよ。

 結果としてじらした豊昇龍の作戦勝ちで、豪ノ山を押し出した。しかし、その後も下品だった。土俵下に落ちた豪ノ山に近づいて手を差し伸べるでもなく、土俵中央で物凄い形相で睨んでいる。いわゆる極道用語で言うところの「メンタンを切る」状態だった。この後、豊昇龍、徳俵までもどって振り向いても、土俵に戻ってくる豪ノ山を睨んでいた。相手に対する怒りが治まらない様子を顔面に充満している。取り組みが終われば、すっと平常心にもどるこれが、朝昇龍、白鵬、豊昇龍にはできないのだ。これが見ていて実に見苦しい。

 

 そういった理由からワシャは豊昇龍も、叔父の朝昇龍や前の横綱白鵬が嫌いだ。勝ちにこだわり過ぎ、横綱として、力士としての風格や高貴さのようなものをかなぐり捨ててしまったところが下品に見えて仕方がないからである。

 土俵を割っている相手をさらにダメ押しの突きで土俵下に転落させたり、勝つために立ち合いに変化したり、ガッツポーズを誇示したり、土俵上で喜怒を見せたりとか、とても横綱とは思えない行動は目に余った。とくにこの手の行動はモンゴル力士に多いのだが、それは全てではない。ワシャの好きだった旭天鵬などは所作のきれいな力士だった。

 68代の朝昇龍から73代の照ノ富士まで6人の横綱がいる。その内、日本の力士は稀勢の里だけだった。残りの5人はすべてモンゴル力士、それが日本人の実力なのだと言ってしまえば、それでお仕舞いなんだが、最低限の日本の国技の戦士としての礼儀、所作、相手への思いやりなどを身に着けてからの、大関横綱でいいのではないか。

 相撲はスポーツを観ているのではない。神事を拝見しているのだということを、歴史・文化・伝統を愛するものとしては言わせてもらいたい。