拙速は巧遅に勝る

 今、新選組のことを調べ直している。若かった頃に、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んで興味を持ち、関連文献を買いあさった。だから新選組関連で本棚の2棚くらいは並んでいる。

 今、本を当たっているのは、近藤勇土方歳三が江戸から京に移って、壬生に宿舎を決めたあたりである。

 壬生が新選組草創期の重要な場所で、ここで芹沢鴨を局長に、次席に近藤勇をすえて産声を上げた。たった13人(芹沢派5人、近藤派8人)による新選組立ち上げだったんですね。

 このころの近藤一派は、まさにすかんぴんで擦り切れたような旅装のままで、「壬生浪(みぶろ)」、「みぼろ」などと陰で嘲笑されていた。水戸藩の後ろ盾のあった芹沢はある程度の資金を持ってはいて、身なりは近藤一派に比べれば、かなり上等だった。とはいえ、花街での散在なども重なって、財布の底が見えるようになってきた。

 そこで一計を案じた土方は、近藤、芹沢をかついで、京都守護職会津藩に掛け合って軍用金を調達する。この資金を頼りにして新規の隊員の募集をしていくことになる。

 軍用金調達の時点で、芹沢一派と近藤一派の明暗が分かれた。「拙速は巧遅に勝る」である。

 花街に繰り出す芹沢らを横目に見ながら、近藤以下8人のメンバーはすぐに動いた。京、大坂の町道場をくまなく回って、血気盛んな腕の立つ若者を勧誘して歩いたのだ。

 結果として募集に応じた100名の隊士は、近藤派のメンバーが集めたわけである。そうなれば、色合いも近藤派となるのは必然と言っていい。

 隊員募集に汗をかかなかった芹沢派5人である。肩書だけは上位にあったが、実質の兵を持たぬために、新選組は近藤、土方主導で運営されていくことになる。そして入京して7カ月足らずで「士道不覚悟」という名目で、近藤一派に粛清されてしまう。

 哀れなるかな芹沢鴨。近藤や土方の動きを少しでも想定していれば・・・早め早めに動いていれば、あんなに情けない最期を遂げなくても済んだものを。

「近藤の動きは想定外だった」

 芹沢が、そう思ったかどうかは歴史に残されていない。

 

 昨日の夕方、東の空に大きな虹がかかった。その付け根を探したら、ある一軒の民家から虹が立っていた。これね。