猿之助丈の再起を

 今日は歌舞伎の話に付き合ってくだされ。

坂東玉三郎“本興行から距離を置く”発言の衝撃…近づく歌舞伎界崩壊の足音》

https://news.yahoo.co.jp/articles/d8dfd9549e48409b41ba78e6cba88e02db9014b6

 玉三郎丈がこう言われる。

「大きな役で大劇場の1カ月間の一晩を背負うことが体力的に難しくなってきた」

 そりゃそうでしょ。いくらお綺麗だとはいえ、玉三郎丈も73歳になっている。その年齢でハードな舞台をメインで務めるというのは、大変なことなんですね。

 いつの日にか、「玉三郎引退」ということもあろうかと、玉三郎丈の舞台が掛かれば、必ず観に行くことを鉄則としておりました。いよいよ、その引退が近づいてきたことは寂しい限りではある。

 でもね、玉三郎という天下の名女形と同じ時代を生られたことは、まさに僥倖だったなぁ。玉三郎丈のあでやかな、そして深みのある舞台を、もう一度、見せてくだされ~、歌舞伎の神様~。

 

「文藝春秋」の7月号である。

猿之助ショック!歌舞伎を守れ》という特集が組まれていた。昭和30年代からワルシャワ家では、「文藝春秋」を購読してきたのだが、このところ内容がリベラル臭くなってきて、ちょいと買うのを控えていた。ところがこの「歌舞伎」についての記事ですわ(笑)。つい、いつもの本屋さんで買ってしまいました。

 特集の一本は、演劇評論家渡辺保氏だった。渡辺氏、四代目の猿之助がいかに素晴らしい役者・演出家であるかを縷々解説をしている。

《芝居には“ツボ”があります。猿之助は、この“ツボ”をよく心得ているのです。》

 ワシャもそう思う。猿之助はNHK大河に出ても、周囲の役者を圧するほどの演技を見せてくれた。もちろん舞台でも、その存在感は圧巻で、観終わった後に充足感が得られる数少ない役者である。

澤瀉屋の十八番である派手な仕掛けに頼らずとも、人間ドラマで客を感動させる歌舞伎本来の魅力を取り戻してくれるだろう》

 渡辺氏は、猿之助に大いに期待を寄せられているが、まさに歌舞伎ファン、澤瀉屋の贔屓筋は、長じた猿之助の演技に夢を描いていた。

 渡辺氏、今回の一連の騒動のもとになった「パワハラ・セクハラ」について、こう苦言を呈している。

《罵倒や叱責を「パワハラだ」と断罪するのは簡単ですが、現場からバイタリティーが失われてしまえば、完成する作品のスケールは小さくなる》

 そのとおり。建前で生きていける現実の社会と、歌舞伎という伝統文化の世界は根本から違うのである。

 歌舞伎の「か」の字も知らぬ週刊誌の記者が、正義感ぶって猿之助を、歌舞伎界の風習を断罪することにはワシャも違和感をもつ。

 同じ特集で、エッセイストの関容子氏が、先代の団十郎丈の言を引いている。

女方が男に惚れることも含めて「総てが歌舞伎の魅力なのだ」》

 関氏自身の言葉では、《情が深く人をすぐ好きになるという豊かな心をもっていないと役者は務まりません。それは相手が男であろうと女であろうと関係ない。歌舞伎では女方が立ち役にあこがれるのは自然な流れだし、役に成りきるとはそういうことだと思います。》こうまとめている。

 そのとおり。

 歌舞伎400年の伝統文化は、この20年くらいのサヨクの価値観「みんな平等」などというものでは、推し量ることはできない。

 師匠と弟子の間には、「平等」などというものは存在しないし、厳しい稽古に「人権」などというこじゃれた思想の入り込む余地はない。

 そもそもそれが嫌なら、歌舞伎界に入って来なければいいのだ。

 

 澤瀉屋が危機である。中車、猿之助のスキャンダル。段四郎の死亡、猿翁の高齢・・・中車、猿之助が罪に問われることがあるならば、それはきっちりと償えばいい。当時者にまかせておけばいいのだ。「ダイハード」のラストで、マクレーン刑事に殴られた記者のように、デバガメ根性だけで当事者のまわりをウロウロするんじゃねえよ。オメエらのかざしている「正義」なんて薄っぺらなものなのだから。

 

 何年かかろうとも、猿之助丈には舞台に戻ってきてもらいたい。